おうしゅく

王粛

字子雍 生没年195年 – 256年 所属魏

鄭玄の学に対抗する一派を立てた、魏の経学の大家

能力値
統率 F
武力 F
知力 B
計略 E
政治 C
人望 D
関連年表
195年 魏の重臣・王朗の子として生まれる
212年頃 十八歳で宋忠に揚雄『太玄』を学び、自ら解説を加える
黄初年間 散騎黄門侍郎となる。のち散騎常侍
明帝期 宮殿造営に際し、民を休ませるよう上疏して諫める
240年 広平太守として出され、のち議郎・侍中・太常に至る
正始年間 蒋済・崔賛とともに「何晏らは必ず人の家を破滅させる」と評す
— 賈逵・馬融の学に拠り、鄭玄の学に対抗して「王学」を立てる
— 諸経に注を著し、典制・郊祀・喪紀の論駁は百余篇に及ぶ
254年 持節兼太常として曹髦を迎える
255年 毌丘倹の乱に際し、関羽の先例を引いて反乱軍の瓦解を予測する
256年 没する(六十二歳)。衛将軍を贈られ景侯と諡される
後年 娘・王元姫の子である司馬炎が晋を建て、その外祖父となる

略歴

王粛、字を子雍といい、魏の重臣・王朗の子である。興平二年(195年)の生まれ。 十八歳のとき、荊州の学者・宋忠に揚雄の『太玄』を学び、さらに自ら解説を加えたという。黄初年間に散騎黄門侍郎、太和三年に散騎常侍となった。明帝が宮殿の造営に熱心であったときには、上疏して民を休ませるよう諫めている。 正始元年(240年)に広平太守として出され、のち議郎、侍中を経て太常に至った。曹爽が政権を握って何晏・鄧颺らを任用したとき、王粛は太尉の蒋済・司隷校尉の崔賛とともに「何晏らは必ず人の家を破滅させる」と評している。 学者としての本領は、経学にあった。王粛は後漢の賈逵・馬融の学系を善しとし、当時絶大な権威をもって行われていた鄭玄の学を好まなかった。諸説の異同を採り集めて『尚書』『詩』『論語』『三礼』『春秋左氏伝』の解釈を著し、父・王朗の『易伝』も撰定した。これらはいずれも学官に列された。朝廷の典制・郊祀・宗廟・喪紀について論駁した文章は、合わせて百余篇に及ぶ。鄭玄の学(鄭学)と王粛の学(王学)の対立は、以後の経学史における一大論争となり、西晋では王学が官学の地位を占めることになる。 政治の場でも重んじられた。正元二年(255年)、毌丘倹・文欽が寿春で挙兵したとき、司馬師に問われて乱の帰趨を論じ、持節兼太常として曹髦を迎える役も務めている。官は中領軍・散騎常侍に至り、蘭陵侯に封じられた。 甘露元年(256年)に没した。六十二歳。喪服を着て悼んだ門生は百人を数えたという。衛将軍を贈られ、景侯と諡された。 その娘・王元姫は司馬昭に嫁ぎ、二人のあいだに生まれたのが、のちに晋を建てる武帝・司馬炎である。すなわち王粛は、晋の初代皇帝の外祖父にあたる。

逸話

経学の大家として知られる王粛だが、その洞察は書物の上に限られていなかった。 正元二年(255年)、毌丘倹と文欽が寿春で挙兵したとき、司馬師は王粛に問うた。「国を安んじ、主を寧んずる術はどうあるべきか」。王粛は、三十五年前の先例を引いて答えた——昔、関羽は荊州の兵を率いて于禁を漢水のほとりで降し、北へ向かって天下を争う志を抱いた。だが孫権がその将士の家族を襲い取ると、関羽の軍は一朝にして瓦解した。いま淮南の反逆も、将士がことごとく心から従っているわけではない。 反乱軍の兵の家族は、本国に残っている。ならば軍は内側から崩れる——その読みは、そのまま的中した。毌丘倹の軍は日を追って離散し、彼は逃走の途中で討たれた。 人を見る目も確かであった。曹爽が何晏・鄧颺らを任用したとき、王粛は「何晏らは必ず人の家を破滅させる」と断じている。占術家の管輅が同じころ何晏と鄧颺に死相を見て「鬼幽」「鬼躁」と評したのと、結論は同じであった。片方は相を見て、片方は行いを見て、同じ破滅を予測したことになる。 学問の面では、絶対の権威に挑んだ人であった。当時の経学は後漢の大儒・鄭玄の学説が支配しており、王粛はこれに対して賈逵・馬融の学系に拠って独自の解釈を打ち立てた。鄭学と王学の対立は経学史における一大論争となり、西晋では王学が官学の座を占めるに至る。 その学問をめぐっては、千数百年を越えた後日談がある。王粛は『孔子家語』に注を付けて世に出したが、清代の考証学者たちはこれを王粛自身の偽作と断じ、長く偽書として扱われてきた。ところが一九七〇年代以降、河北の定州や安徽の阜陽にある漢代の墓から出土した竹簡に、『孔子家語』と重なる内容が含まれていることが判明する。漢の初めにすでに原型が存在していたことになり、全面偽作説は見直された。地中から現れた竹簡が、はるか後世にこの学者の名誉に関わったのである。 そして王粛の血筋は、娘を通して時代そのものを動かした。 娘の王元姫は、八歳で『詩経』と『論語』を暗誦した。祖父にあたる王朗はこの孫娘を深く愛し、異才と認めてこう言ったという——「この娘は必ずわが家を興すだろう」。王元姫は司馬昭に嫁ぎ、その子が晋の武帝・司馬炎となる。王朗の言葉は、家を興すどころか、王朝を生む形で当たった。 その王元姫にも、父と同じ目があった。鍾会が才能を認められて重用されていたころ、彼女はたびたび司馬昭に言った——「鍾会は利を見て義を忘れ、好んで事端を作る人です。寵が過ぎれば必ず乱を起こしましょう。あらかじめ備えておかれますように」。鍾会は後に、果たして反乱を起こした。 父は淮南の乱の帰趨を読み、娘は鍾会の反逆を読んだ。奇しくも同じころ、蜀へ亡命した夏侯覇も姜維に向かって、鍾会が政を執れば呉と蜀の憂いとなると予言している。三人がそれぞれの場所から、同じ一人の若者を危険と見ていたことになる。

評価

王粛は、絶対の権威であった鄭玄の学に敢然と挑み、独自の学派を打ち立てた、魏を代表する経学の大家である。その学問は、後世の儒学に長く影響を及ぼした。 学者としての大きな足跡に加え、その血筋が晋の皇統へとつながっていった点でも、時代の転換に深く関わった人物である。

演義

小説『三国志演義』では、学者・重臣として名が現れる程度で、大きくは描かれない。 史実における経学の大家としての事績、そして晋の皇統との縁は、物語の外で静かにその重みを保っている。
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