ていげん

鄭玄

字康成 生没年127年 – 200年 所属後漢

経学を集大成した、後漢末の大儒

能力値
統率 F
武力 F
知力 B
計略 F
政治 E
人望 B
関連年表
127年 北海郡高密県に生まれる
— 郷の嗇夫となるが学官へ通い続け、父の怒りを押して学を志す
— 太学で第五元先に学び、易・春秋・暦法・算術を修める
— 盧植の紹介で馬融に師事するが、三年のあいだ顔を合わせられず
— 一度の面会で疑義を質し、馬融に「吾が道は東せり」と嘆じさせる
— 遊学十余年で帰郷。東莱で人の土地を借りて耕しつつ数千の学徒を教える
166年以降 党錮の禍で禁錮され、以後十四年を注釈に費やす
— 何休に「わが矛を操ってわれを伐つのか」と歎じさせる三篇を著す
— 一人息子の鄭益恩が、黄巾に囲まれた孔融を救おうとして戦死する
— 孔融が高密に「鄭公郷」を新設させ、その門を「通徳門」と名づける
196年 帰郷の道で数万の黄巾に行き合い、賊は拝して県境に入らなかった
— 袁紹の宴で酒一斛を飲み、挑まれた論戦をことごとく返す
200年 袁譚に強いられ病身を車で元城県へ運ばれ、六月に没する(七十四歳)
200年 遺言は薄葬。喪服で駆けつけた元門弟は千余人に及ぶ

略歴

鄭玄、字を康成といい、青州北海郡高密県の人である。永建二年(127年)の生まれ。八世の祖・鄭崇は哀帝の尚書僕射であった。 若いころ郷の嗇夫という下級の役人になったが、休暇を得て帰るたびに学官へ通い、吏の務めを楽しまなかった。父はしばしば怒ったが、やめさせることはできなかった。 やがて太学に入り、京兆の第五元先に師事して『京氏易』『公羊春秋』『三統暦』『九章算術』を修め、東郡の張恭祖から『周官』『礼記』『左氏春秋』『韓詩』『古文尚書』を受けた。暦と算術にまで及ぶ学びであった。そして「山東にはもう問うに足る者がいない」として西へ関に入り、涿郡の盧植の紹介で、当代最高の学者・馬融に師事する。 馬融の門徒は四百余人、そのうち堂に昇って直接教えを受けられるのは五十余人であった。鄭玄は三年のあいだ師の顔を見ることができず、高弟から間接に伝授されるだけであった。それでも日夜尋ね誦じて怠らなかった。 あるとき馬融が門弟を集めて讖緯の書を論じていたとき、鄭玄が算術に長けていると聞いて楼上に召した。鄭玄はこの機にゆったりと疑義を質し、問い終えると辞して帰郷した。馬融は深く嘆じて門人に言ったという——「鄭生は今去る。吾が道は東せり」。 遊学十余年を経て郷里へ帰った鄭玄は、家が貧しく東莱で人の土地を借りて耕した。それでも学徒は数百、数千と従った。やがて党錮の禍が起こり、鄭玄は同郡の孫嵩ら四十余人とともに禁錮の身となる。以後十四年、門を閉ざして注釈に専念した。 その間に成ったのが「鄭学」である。『周易』『尚書』『毛詩』『儀礼』『礼記』『論語』『孝経』をはじめ主要な経書のほとんどに注を施し、暦法や礼制の論考も含めて、その著述は百余万言に及んだ。今文・古文の対立を超えて経書を体系的に注解した業績は、以後千年以上にわたって儒学の土台となった。 建安元年(196年)、徐州から高密へ帰る道中、数万の黄巾の賊に行き合った。賊はみな鄭玄を見て拝礼し、互いに約束して高密の県境に入ろうとしなかったという。 大将軍の袁紹も、北海相の孔融も、こぞってこれを厚遇した。孔融は高密県に命じて鄭玄のために一郷を新設させ、「鄭公郷」と名づけ、その門を「通徳門」と称した。 建安五年(200年)の春、鄭玄は孔子が夢に現れて死期を告げる夢を見て、ほどなく病に臥した。そのころ袁紹は官渡で曹操と対峙しており、子の袁譚に使者を遣わして、鄭玄を軍に随行させるよう強いさせた。やむなく病身を車に載せて元城県まで至ったが、病は重く、それより進めぬまま、その年の六月に没した。七十四歳であった。 遺言は薄葬であった。郡守以下、かつて教えを受けた者で喪服を着て葬儀に駆けつけた者は、千余人を数えたという。

逸話

「吾が道は東せり」——馬融がこの言葉を漏らしたのは、三年間一度も顔を合わせなかった弟子を、たった一度楼上に召して質問を受けた直後であった。 当代最高の学者であった馬融は驕貴な人で、四百余人の門徒のうち直接教えを受けられるのは五十余人にすぎなかった。鄭玄はその外側にいた。高弟から伝え聞くだけの三年を、日夜尋ね誦じて過ごした。そしてようやく許された一度の面会で、たまっていた疑義を質し、問い終わると辞去した。師は門人にこう言った。「鄭生は今去る。わが学問は東へ行ってしまった」。自分の学の本体が、この弟子とともに山東へ移ったという認識である。 学問上の論争でも、同じことが起きている。公羊学を奉じる何休は、『公羊墨守』『左氏膏肓』『穀梁廃疾』を著して自説を固めた。これに対し鄭玄は『發墨守』『鍼膏肓』『起廃疾』——墨守を打ち破り、膏肓に鍼を打ち、廃疾を起き上がらせる——と、題名からして相手の論を解体する三篇で応じた。何休は読んで歎じたという。「康成はわが室に入り、わが矛を操って、われを伐つのか」。 人望のほどを伝える逸話は、さらに現実的である。建安元年(196年)、徐州から故郷へ帰る道で、鄭玄は数万の黄巾の賊に行き合った。賊はみな拝礼し、互いに約束して高密の県境に入らなかった。王朝を揺るがす大乱の当事者たちが、一人の老学者の前で足を止めたことになる。 ただし、同じ乱は鄭玄から一人息子を奪っていた。鄭益恩は孔融に孝廉として挙げられ、その孔融が黄巾に囲まれたとき、救援に赴いて戦死している。黄巾は父を拝して引き返し、その子を殺した。 袁紹の宴席での一景も名高い。冀州の兵を統べていた袁紹が賓客を大いに集め、最後に到着した鄭玄を上座へ引き上げた。身の丈八尺、酒を一斛飲み、秀でた眉と明るい目をした温和で堂々たる風貌であったという。袁紹の客には弁の立つ豪傑が多く、儒者と見て侮り、競って異端の説を持ち出して百家が入り乱れた。鄭玄は一つ一つ理に即して答え、その回答はいずれも問いの想定を超えており、誰もが聞いたことのない説を得て感服したと『後漢書』は記す。 その席には、汝南の応劭もいた。応劭は自ら名乗って「元の太山太守・応中遠が、北面して弟子と称したらいかがでしょうか」と申し出た。鄭玄は笑って答えた——「孔子の門では、徳行・言語・政事・文学の四科で人を量りました。顔回や子貢の徒が、官位や家柄を称したことはありません」。応劭は顔を赤らめた。 北海相の孔融の敬い方は、徹底していた。たびたび庵を訪ねたうえ、高密県に命じて鄭玄のために一つの郷を新設させ、「鄭公郷」と名づけたのである。昔、斉には士郷があり、越には君子軍があった、賢を特別に扱う例はある——というのがその理屈であった。さらにその門を「通徳門」と称した。一人の学者のために行政区画が作られたことになる。 最期には、二つの力が働いた。建安五年(200年)の春、鄭玄は夢に孔子が現れて「起きよ、起きよ。今年の歳は辰にあり、来年の歳は巳にある」と告げるのを見た。目覚めて讖と合わせ、自分の命が尽きると知って病に臥した。一方そのころ、官渡で曹操と対峙していた袁紹は、子の袁譚に命じて鄭玄を軍へ随行させるよう強いた。病床の七十四歳が車に載せられ、元城県まで運ばれて、そこで動けなくなり、六月に没した。 遺言は薄葬であった。それでも郡守以下、かつての門弟が喪服で駆けつけ、その数は千余人に及んだ。 後日談も二つある。ひとつは学問の話で、のちに魏の王粛が賈逵・馬融の学系に拠って鄭学に対抗し、「王学」を立てた。だが鄭玄自身が馬融の弟子であり、「吾が道は東せり」と言わせた当人である。師の学を掲げて、その師が最も認めた弟子を攻めたことになる。王学は西晋で官学の座を占めたが、唐代に編まれた経書の正義では鄭玄の注が多く採られ、結局は鄭学が残った。 もうひとつは血筋の話である。鄭玄には遺腹の子があり、手の紋が自分に似ているとして「小同」と名づけられた。この鄭小同は魏に仕えて侍中に至ったが、『世説新語』によれば、司馬師を訪ねた際に機密の書状を見たのではないかと疑われた。「見たか」と問われて「いいえ」と答えた鄭小同に、司馬師はこう言って毒を与えたという——「われが卿を負くとも、卿がわれを負くことはあらせぬ」。かつて曹操が口にしたとされる言葉を裏返した一言であった。

評価

鄭玄は、後漢末の学問を一身に集大成した、まさに経学の泰斗である。今文・古文の対立を超えて経書を注解したその業績は、以後千年以上にわたって、儒学の学びの土台であり続けた。 乱世にあって権勢を求めず、学に殉じたその生涯は、武人・権臣のひしめく三国の物語のなかで、学問の光を静かに放っている。徳の高さは賊すらも動かしたと伝わり、その人望のほどがしのばれる。

演義

小説『三国志演義』では大きくは描かれないが、当代随一の大儒としてその名が現れる。 戦乱と権謀の物語の背後で、学問の権威を体現する存在として位置づけられている。
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