けんしょう

牽招

子経 生没年? – 231年 所属

田豫と並び北辺を守った、信義に篤い魏の名将

能力値
統率 C
武力 D
知力 C
計略 C
政治 D
人望 C
関連年表
後漢末 冀州安平郡観津県に生まれ、楽隠に師事する
190年頃 董卓の乱で殺された師の遺骸を守り、山賊を義心で退かせる
190年代 袁紹に仕え、督軍従事として烏丸の突騎を統べる
204年頃 袁尚の敗走後、高幹の説得に失敗し曹操に帰す
207年 烏丸校尉として柳城の平定に従う
220年代 雁門太守となり、鮮卑に備えて城を修め水を引く
220年代 歩度根と軻比能の連携を離間し、辺境を安んじる
231年頃 軻比能と蜀の連携を断つ策を上奏し、任にあって没する

略歴

牽招、字を子経といい、冀州安平郡観津県の人である。若くして同郡の楽隠に師事して学んだ。義を重んじる人柄で知られ、その名を高からしめた事件が学生時代に起こる。師の楽隠が何苗の長史となって都に上ったのに従っていたが、都では董卓の乱が起こり、何苗も楽隠も殺されてしまった。牽招は同門の史路とともに師の遺骸を車に載せて故郷へ運ぼうとしたが、途中で山賊に襲われる。史路らは逃げ散ったが、牽招ひとりは車のかたわらに留まって動かず、涙を流して哀訴した。賊はその義に打たれ、害を加えずに去ったという。 長じて冀州の袁紹に仕え、督軍従事として烏丸の突騎を統べた。袁紹の死後は子の袁尚に従い、上党へ軍糧を督しに赴いたが、その間に袁尚は敗走。牽招は幷州刺史の高幹に袁尚を迎えて再起するよう説いたが容れられず、かえって害されかけたため、やがて曹操に帰した。曹操はその義と才を喜んで用いる。 以後の牽招は、田豫とならぶ北辺の守将として生涯を送った。烏丸校尉として柳城の平定に従い、文帝の代には雁門太守となって鮮卑に備えた。彼もまた、諸部族を分断し、あるいは討ち、あるいは懐柔する術に長けていた。烏丸や鮮卑の帰順者を手厚く遇して信を得るいっぽう、鮮卑の大人・歩度根と軻比能が結ぼうとすれば、これを離間して結束を砕いた。任地では城を修め、水を引き、荒れていた辺境の郡を安んじたので、民に深く慕われた。 護烏丸校尉などを歴任し、蜀の諸葛亮に呼応しかねない軻比能の動きを断つ策を上奏するなど、最後まで北辺の憂いを断つことに心を砕いた。太和五年(231年)ごろ、任にあって没した。

逸話

牽招の名を不朽にしたのは、まだ学生であった日の一事である。師の楽隠が都で董卓の乱に巻き込まれて殺されると、牽招は同門とともにその遺骸を車に載せ、故郷へ帰そうとした。ところが道中で山賊に襲われる。同行者たちが我先にと逃げ散るなか、牽招だけは車のそばを離れず、涙を流して賊に哀願した。師の亡骸を故郷へ帰させてほしい、と。賊はその一途な義心に胸を打たれ、刃を収めて去っていったという。この話が伝わって、牽招の名は天下に知られた。 北辺にあってからの牽招は、信をもって異民族に接した。帰順した部族には約束を違えず、罪ある者はためらわず討つ。その一貫した姿勢が、かえって深い畏敬を生んだ。任地では城壁を修め、遠くから水を引いて田を潤し、荒れ果てていた郡を再び人の住める地に変えた。武人でありながら、その本領はむしろ辺境の民を安んじる政にあったと言ってよい。 蜀の諸葛亮が北伐を起こし、鮮卑の軻比能と結んで魏を挟撃しようと図ったときも、牽招はいち早くその動きを察知し、軻比能を討って蜀との連携を断つべきことを上奏している。生涯を北辺に捧げ、大乱を未然に断ち続けた——華々しい戦功の記録は少ないが、国境に住む民にとって、これほど有り難い将はいなかった。

評価

牽招は、田豫と並び称される北辺の名将であり、その武略と信義によって、魏の北の守りを固めた。異民族を力ずくで抑えるだけでなく、分断と懐柔を巧みに用いて、大きな乱を未然に防いだ。 華々しい大会戦の記録は少ないが、辺境を鎮め続けたその功は、国境を接する民にとって計り知れないものであった。

演義

小説『三国志演義』では目立った登場は少ないが、魏の北方を守る将の一人として名が挙がる。 田豫らとともに、広大な魏の辺境を支える実務の武将として位置づけられている。
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