でんよ

田豫

国譲 生没年? – 252年 所属

北辺に長く鎮し、異民族を撫でた魏の清廉な宿将

能力値
統率 C
武力 D
知力 C
計略 C
政治 C
人望 C
関連年表
後漢末 幽州漁陽郡雍奴県に生まれる
190年代 公孫瓚のもとで劉備に才を愛されるが、母の養育のため故郷へ帰る
200年頃 公孫瓚の滅亡後、鮮于輔を輔けて曹操に帰す
220年代 護烏丸校尉として北辺に鎮し、烏桓・鮮卑を撫で討つ
230年頃 鮮卑の軻比能を撃ち、部族を離間して大乱を防ぐ
230年代 馬城で軻比能の大軍に包囲されるも、埋伏と急襲で破る
240年代 汝南太守・振威将軍として南方に転じ、海上で呉軍を破る
252年頃 太中大夫に至り、清廉をもって知られたまま没する

略歴

田豫、字を国譲といい、幽州漁陽郡雍奴県の人である。若いころ、公孫瓚を頼って身を寄せていた劉備のもとに走り、その才を深く愛された。だが老いた母を養わねばならぬからと、涙ながらに別れを告げて故郷へ帰る。以後は公孫瓚に仕え、瓚が袁紹に滅ぼされたのちは鮮于輔を輔けて曹操に帰し、曹操の麾下に入った。 曹操は田豫を用いて、まず内地の乱を鎮めさせた。だが彼の真価が発揮されたのは、生涯の大半を過ごすことになる北辺の守りである。烏桓・鮮卑といった北方の異民族に対し、田豫は恩信をもって撫でるかと思えば、断固として兵を用いて討ち、また部族どうしを離間させて力の均衡を保つ——飴と鞭を巧みに使い分けて、長く辺境を鎮め続けた。 護烏丸校尉として北辺にあった時期、鮮卑の大人・軻比能が諸部族を糾合して強盛となると、田豫はその都度これを撃ち、また部族間の対立を煽って結束を崩し、ついに大乱に至らせなかった。あるとき軻比能の大軍に馬城で幾重にも囲まれたが、田豫は少しも動じず、埋伏と急襲を用いて包囲を破っている。 のち南下して汝南太守・振威将軍となり、青州方面では海上から呉軍を破る功もあげた。だが彼はつねに辺境の任を望んだ。その人となりは徹底して清廉で、朝廷からの恩賞や異民族からの贈り物はことごとく部下に分かち与えるか官に納め、家には余財を蓄えなかった。年八十を過ぎて職を辞そうとしたが許されず、太中大夫にまで至って、嘉平四年(252年)ごろに世を去った。

逸話

田豫が世に出るきっかけは、若き日の劉備との出会いであった。公孫瓚のもとに身を寄せていた劉備は、まだ年若い田豫の才を見抜いて深く愛した。だが田豫は、老母を養わねばならぬからと別れを願い出る。劉備は嘆じて言った——「君とともに大事を成せぬのが、返す返すも恨めしい」。二人はそのまま袂を分かち、劉備は南へ、田豫は北辺の守りに生涯を捧げることになる。乱世は、同じ志を抱いた者を、しばしばこうして引き裂いた。 田豫の清廉は徹底していた。異民族の首長たちは彼を慕って幾度も贈り物を届けたが、田豫はそのすべてを官に納め、家に入れることをしなかった。朝廷はその廉直を賞して下賜を重ねたが、それも部下や困窮した者に分け与えてしまう。ために家はいつも貧しかった。人が理由を問うと、こう答えたという——「わしは辺境の民を安んじるために仕えているのであって、財を蓄えるために仕えているのではない」。 年八十を越えてなお辞職を許されず、辺境の任に留め置かれたとき、田豫は嘆いて言った——「年七十にして官位に留まるは、たとえば門限を過ぎてなお夜歩きするようなもの。罪である」。功名にも財貨にも淡く、ただ職務に忠実であり続けたその生き方は、辺境防衛に生きた武人の理想像として語り継がれた。

評価

田豫は、華やかな会戦の勲功よりも、辺境をおさめて乱を未然に防ぐことに徹した、地味ながら得がたい名将であった。異民族との駆け引きに通じ、飴と鞭を使い分けて北辺の安定を保った手腕は、当時第一等と評された。 清廉にして名利を求めなかったその生涯は、辺境防衛に生きた武人の理想像として、後世に伝えられている。

演義

小説『三国志演義』では大きくは扱われないが、若き日の劉備との関わりや、魏の北方防衛に携わる将として名を連ねる。 異民族を相手取る辺境の守将としての姿が、魏の広大な版図を支える人材の一人として描かれる。
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