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劉備、荊州全土掌握

魏伝


曹叡 元仲そうえい げんちゅう

姓名曹叡
元仲
生没年204年 - 239年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号明皇帝
伝評秦の始皇帝、漢の孝武帝を凌ぎ評される皇帝
主な関連人物 曹操 曹丕 甄氏 曹芳 司馬懿 
関連年表 226年 曹丕が崩御し皇帝に即位する
234年 合肥新城の戦い

略歴

204年(206年とも云われる)、文帝曹丕と甄氏の間に生まれた長男。生まれて以来、曹操は可愛がりいつも側においた。220年、数え15歳で武徳侯、翌年に斉公、222年には平原王に封ぜられた。

226年、父の文帝・曹丕が病床で重体に陥ってから皇太子に立てられた。即位以前、曹叡は公の場に出ることが少なく、曹叡の人物を知る者は司馬懿など限られた人々しかいなかったという。同年5月に曹丕が亡くなると皇帝に即位した。

同年8月、孫権が江夏郡を攻撃したが、太守の文聘が堅く守備した。朝廷会議でこれを救援しようとしたところ、曹叡は「孫権は水戦に馴れているのに、あえて上陸して攻撃してきたのは、不備に乗じて急襲しようとしたからだ。現在すでに文聘と持久戦を行っている。そもそも攻撃は守備の二倍の勢力が必要とする。絶対に長居しようとはすまい。」といい、援軍として荀禹を派遣して国境地帯を慰労した。荀禹は江夏郡付近の山中で狼煙をあげ、孫権を撤退させた。

また、呉の別働隊である諸葛瑾・張覇が襄陽に侵攻してきたので、司馬懿を派遣して撃破し、張覇を討ち取った。

227年、麹英が西平で反乱を起こすと、カク昭と鹿磐を派遣して討伐した。

228年、新城太守の孟達が蜀の諸葛亮と内通している噂を知ると、司馬懿に探らせた。更に孟達に入朝するように勧告したが、身の危険を感じた孟達は反乱を起こした。司馬懿をその鎮圧の任に当たらせ孟達を斬った。

同年、蜀の諸葛亮が国境を侵攻し天水・南安・安定の三郡が蜀に呼応した。大将軍の曹真を派遣し守らせた。右将軍の張コウが街亭で馬謖軍を破り、諸葛亮を撤退させ、三郡を平定した。

12月、遼東の公孫淵が公孫恭から位を強奪したので、そのまま公孫淵を遼東太守に任命した。

229年、大月氏国の王・波調が使者をよこして貢物を献上したので、波調を新魏大月氏王に任じた。9月、大司馬の曹真、司馬懿に蜀討伐を命じ派遣したが、大雨による川の氾濫が起きたので勅令を下して帰還させた。

231年、曹叡は籍田を施した。3月、諸葛亮が天水に侵攻してきたので、司馬懿を派遣しこれをあたらせた。

233年、年号を改元した。妻のない男、夫のない女、孤児、子のない老人にはこの年、免税とした。詔勅を出して、今はなき夏侯惇、曹仁、程イクらを曹操の霊廟の園庭に祭らせた。

12月、公孫淵が孫権の派遣した使者、張弥・許晏の首を切って送ってきたので、公孫淵を大司馬楽浪公に任命した。

234年、漢の献帝(山陽公)が死去したので葬儀をとり行わせた。流行病が大発生し、火災が起きたので、霊廟に祭り、献帝に諡号を与え、漢の礼式で葬らせた。献帝の孫・劉康に後継させた。

諸葛亮が斜谷に侵攻してきたので司馬懿にあたらせた。砦を堅く閉じ長期戦で相手を退けよと勅令を出した。

5月、孫権が居巣湖の入口から侵攻し、陸遜と孫韶らに合肥新城を攻撃した。守将の満寵は合肥を放棄し寿春へ誘い出すように進言したがこれを拒否した。満寵に指示して迎撃させ、曹叡自ら軍を率いて合肥に向かったが、到着前には孫権は撤退した。

8月、勅令の従った司馬懿が長期戦に持ち込み、たまたま諸葛亮が死去したので蜀軍は撤退した。

11月、大地震が発生し屋根瓦が振動した。天文学に従い死刑法を削減制定した。

235年、司馬懿を大尉に任命した。伝染病が流行して文帝(曹丕)の郭后が崩御し、数日後に寿光県に隕石が落ちた。御陵を造営し定め通り郭后を埋葬した。洛陽宮を大修理し増築を行った。これにより農業の時期を奪われてこれを諌めたが聞き入られなかった。

238年、遼東の公孫淵が自ら燕王を自称し謀反を起こしたので、司馬懿を派遣し遠征討伐させた。毋丘倹を副将とした。燕王曹宇を、劉放・孫資らの讒言により免職させ、曹爽を大将軍とした。

239年、曹叡は病に倒れ重病となった。司馬懿が遼東討伐から帰還したので早馬で召寄せ、曹爽と共に後事を任せた。同日、曹叡は崩御した。享年36歳。


評価

劉曄の評では、初めて曹叡に謁見した際、他の廷臣にその人となりを尋ねられて「秦始皇や漢武の風を持つが、この二人には僅かに及ばない」と答えている。

陳寿は、冷静沈着にして剛胆、決断力と見識を併せ持ち、全てを自らの意志に従って行動した。君主たるに相応しい気概の持ち主であった。しかし、当時の人民は度重なる戦争で疲弊し、天下も三分されており、まずは先代の方針に従って、広大な版図の復興をなすべきであったのに、にわかに秦の始皇帝や漢の武帝の後を追うかのように宮殿の造営を行って、将来に対する計画とした。それは致命的な病というべきであったと評している。

また、同世代の歴史書を作成していた孫盛は、大臣を優遇冷遇し、その言葉を素直に受け入れる事が出来た。諫言に顔色を変える事があっても、それで殺す事は一度もなかった。その人としての器はまさに、君主とはかくあるべし、と言えるものだった。反面、徳行を行い人民を教化することを考えず、皇族を藩屏として用いず、国家の大権を一部の重臣に集中させ、国の社稷を崩してしまった。悲しむべき事であると評した。


見解

数度に渡って宮殿の造営などを行い、その費用により魏の財政は大きく傾き、また農繁期の農民を多く徴用したために農村の荒廃を招いたと言われる。

次に兵力の恒常的確保のため、兵士の家同士の結婚を奨励。官民(兵士以外の家)に嫁いだ既婚者は、召し上げて未婚の兵士と再婚させるなどした。この政策は「召し上げる際には奴隷を身代わりに出しても良い」「召し上げた既婚者のうち容姿の良い者については後宮に入れる」などの附則が仇となり、国内での人身売買を横行させてしまう。金持ちは妻の身代わりとなる奴隷を買い求め、貧乏人は自らの妻女を金銭で金持ちに差し出したのである。

これらの政策について、重臣のほとんどが反対をしたが、明帝はこれを強硬に推し進めた。

これらの政策に対して司馬光は『資治通鑑』の中で「明帝は諸葛亮の死による外圧の消滅したことで気が緩み、自らの好みの大土木事業を行った」としている。これに対して東洋史学者の安田二郎は明帝の宮殿造営は諸葛亮の死の前より行われており、外圧の消滅とは関係がなく、この土木事業は農民に収入を与えるためのいわば公共事業であり、明帝はこれを「社稷の計」であると強い信念を持って断行したものであるとする。

人物については、司馬懿・曹真・陳羣・劉放・孫資などの大臣に全面的な信頼を寄せた。また、父の曹丕と異なり、諫言した人物や気に入らない人物だからといってそれを処刑することはしなかった。