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曹操が北方を平定

後漢伝


董襲 元代とうしゅう げんだい

姓名董襲
元代
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評仇敵の黄祖討伐で活躍し、並外れた武力の持ち主
主な関連人物 孫権 孫策 
関連年表 196年 孫策に従事する
199年 劉勲討伐
208年 黄祖討伐
213年 濡須口の戦い

略歴

董襲、字を元代といい、会稽郡の余姚の人である。身の丈は八尺(190センチ余り)、人なみはずれた武力があった。

孫策が太守として会稽郡にやってきたとき、董襲はそれを高遷亭で迎えた。孫策は、彼に会ってその人物の立派さに感心をし、役所に入ると彼を門下賊曹に任じた。

この当時、山陰では、以前からそこに巣くう賊徒の黄龍羅と周勃とが、徒党千人を集めていた。孫策は、みずからその討伐に乗り出し、董襲はその手で黄龍羅と周勃の首を斬った。凱旋をしたあと、董襲は別部司馬に任ぜられた。やがて揚武都尉に昇進した。

孫策の配下として皖の攻撃に加わり、さらに尋陽の劉勲を討ち、江夏の黄祖を征伐した。

孫策が逝去したあと、孫権は年若くして、そのあとを継いで事にあたってゆくことになったが、太妃(孫堅夫人)はこれを心配して、張昭や董襲らを招くと、江東の地は守り切ってゆくことができるであろうか尋ねた。董襲は「地の利と人の和とが得られておりますから、万に一つの心配はございません」人々はみな彼の言うところの気宇壮大さに感心した。

不服従民の彭虎たちは、数万人のなかまを集めていた。董襲は、凌統・歩隲・蒋欽らとともに、それぞれ分けてこれを討伐した。董襲が向かう所、すべて敵を破り、彼の軍旗を遠くから見ると、彭虎たちはいそいで逃げ散った。十日ほどで平定し、この功績で威越校尉を授かり、やがて偏将軍に昇進した。

208年、孫権は黄祖を討伐した。黄祖は、二隻の蒙衝(駆逐艦)を横にならべて夏口を守ろうとした。しゃろの太いロープに石をむすんで碇として、船を固定し、弩を乱射して矢が雨のように降ってきたので、呉軍は進むことができなかった。董襲は、凌統とともに先鋒となり、それぞれ百人の決死隊を率いて、その部隊の者たちはみな鎧を二重に着て、大型船に乗ると、しゃにむに進んで蒙衝の腹の下にもぐりこんだ。董襲がみずから刀でもって二本のロープを切った。蒙衝は勝手に流れ出してしまい、呉軍は大挙して攻め込んだ。黄祖はあわてて門を開いて逃げ出したが、兵士たちが追いすがってこれを斬った。

次の日、盛んな祝宴が開かれ、孫権は、さかずきを挙げると董襲に手渡して、碇のロープを切る手柄があったから勝利したと称えていった。

曹操が濡須に兵を進めてくると、董襲は、孫権に従って急遽、濡須に赴いた。孫権は、董襲に命じ、五楼船を指揮して、濡須口を固めさせた。夜、突然の暴風があって、五楼船は傾き転覆しかかった。側近らは董襲に脱出してくださいと伝えた。董襲は腹を立て、「将軍の任を授かり、ここで賊軍に備えているのに、どうして放棄して逃げたりできよう。重ねていう者は斬る」こういったので、強いて彼の意志に逆らわなかった。

その夜、船が破壊し、董襲は死んだ。孫権は、喪服をつけて彼の葬儀に臨席し、遺族には手厚い経済的援助を行なった。


評価

謝承の『後漢書』は、董襲が正しくその身を持して意気に感ずる人物であり、勇猛さを備えて立派な行いをなしたと称賛している。


見解

孫策亡き後、太妃が張昭らと合わせて招かれていることから、董襲は軍の中で代表する人物の一人であったと推測できる。しかし、正史の本伝記述は詳細が乏しく、また演義においても溺死する場面しか登場しない。

また、曹操は213年と217年に二度ほど濡須を攻めている。董襲の死去した当時の官職と、指揮権から推測して、213年の濡須の戦いではないかと考えられる。