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曹操と劉備の英雄論

後漢伝


劉璋 季玉りゅうしょう きぎょく

姓名劉璋
季玉
生没年? - 219年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評国を統治できず、劉備に益州を奪われた群雄の一人
主な関連人物 劉焉 劉瑁 
関連年表 194年 益州刺史となる
219年 荊州牧となる

略歴

劉璋、字を季玉という。父は劉焉、兄は劉瑁、劉範、劉誕、子は劉循、劉闡らがいる。

劉焉の位を継いでから、張魯がだんだん驕って勝手放題となり、劉璋に従うことを承知しなくなったので、劉璋は張魯の母と弟を殺し、かくて二人は仇敵となった。劉璋はしきりに龐羲らを派遣して張魯を攻撃したがたびたびうち破れらた。張魯の私兵の多くが巴西に結集していたため、龐羲を巴西に太守にし、軍をひきいて張魯を防がせた。後になって龐羲と劉璋との仲にひびがはいった。

龐羲と劉璋は昔なじみであるうえに、龐羲は劉璋の子供たちを危難から救ったことがあった。そのために劉璋は厚く龐羲に恩を感じて、彼を巴西太守にした。その結果権力をほしいままにふるうようになった。

これより以前に南陽・三輔の人々が数万家族も益州にながれこんでいたが、それらの人々を集めて兵士とし、東州兵と名づけた。劉璋はその性格が優柔不断で威厳がなく、東州人がその地に古くから住んでいる民衆を侵害しても、取締まることができず政令にも欠けることが多かったので、益州の住民はずいぶん怨みに思っていた。趙韙がかねてから人々の心をつかんでいたので、劉璋は趙韙にこの問題をまかせたが、趙韙は民の怨嗟を利用して謀叛をたくらみ、荊州に手厚い賄賂を送って和睦を請うとともに、ひそかに州内の豪族と手を結び、彼らとともに兵をあげ、引き返して劉璋を攻撃した。蜀郡・広漢・ケン為らはみな趙韙に呼応し、劉璋は成都に馳せ入って、城を固守した。東州人は趙韙を恐れ、みな心を一つにし力を合わせて劉璋を助け、誰も彼も必死になって戦った結果、反逆者を撃破し、進軍して江州にいる趙韙を攻撃した。趙韙の配下の部将ホウ学・李異らは寝返りをうって趙韙の兵を殺害し、趙韙を斬殺した。

趙韙は挙兵して内に攻めこんだが、軍勢はちりぢりになって殺害された。これらのことはみな、劉璋に明晰な判断力が欠けていて、外からの告げ口を聞き入れたことが原因でおこったのである。

漢の朝廷では、益州が乱れていると聞くや、五官中郎の牛亶を派遣して益州刺史とし、劉璋を召し寄せて卿にしようとしたが、お召しに応じなかった。

劉璋は曹操が荊州を征討して、すでに漢中を平定したと聞いて、河内の陰溥を派遣して曹操に敬意を表させた。劉璋に振威将軍の名称を、その兄の劉瑁に兵冠将軍の名称をあたえた。劉瑁は精神病によって物故した。劉璋はさらに別駕従事の蜀郡の張粛を派遣して、蜀兵三百任を種々の御物を曹操に贈ったところ、曹操は張粛を広漢太守に任命した。

劉璋はまた別駕の張松を曹操のもとへ派遣したが、曹操はこのときすでに荊州を平定し、劉備は敗走させていたので、もう張松を歯牙にもかけなかった。張松はこのため怨みを抱いた。ちょうどそのころ、曹操の軍は赤壁で敗北を喫したうえに、流行病で死者が続出していた。

張松は帰還すると、曹操の悪口をいい、劉璋に絶交を勧め、そのついでに劉璋に進言して、「劉豫州は、使君の親類です。彼と結託なさるべきです」といった。劉璋は張松のいうことをすべてもっともだと考え、法正を派遣して劉備とよしみを通じさせ、続いてまた法正はかくして帰還した。後に張松はふたたび劉璋に進言した。「いま州内の龐羲や李異らの諸将はみな手柄をたのんでつけあがり、外部と手を組もうという気があります。もし劉豫州を味方に得られなかったなら、敵は外側を攻撃し、民衆は内乱をおこすでありましょう。まちがいなく敗北につながる道です。」劉璋はまたこの意見に従って、法正を派遣して劉備に来てくれるように頼ませた。

劉璋の主薄の黄権はその利害を述べたて、従事の広漢の王累はみずから州門に身体を逆さづりにして諌めたが、劉璋はまったく聞き入れようとせず、通り道に当たる所に命令を出して劉備をもてなしたので、劉備はまるで自分の国もとへ帰還するように国境を越えたのであった。劉備は江州の北に着くと、塾江の流れを通ってフに到着した。フは成都から三百六十里の距離にある。この年は建安16年であった。劉璋は歩兵と騎兵を合わせて三万余人をひきい、車のとばりをきらきらと太陽にかがやかせながら、出迎えを行き会合した。劉備の率いる武将や兵士は、かわるがわる出かけていって、歓飲すること百余日におよんだ。劉璋は劉備を援助し物資を与えて、張魯を討伐させることとし、そうしてから後別れた。劉璋は米二十万石・騎馬千匹・車千乗・絹織物・綿・ねり絹を劉備に与えて援助した。

212年、劉備は葭萌に到着し、兵をかえして南方にむかった。彼の軍は行く先々で勝利を収めた。

214年、進行して成都を数十日間にわたって包囲した。城中にはまだ三万の精兵がおり、衣食は一年分もあって、官民とともども死を賭して戦う覚悟であった。劉璋がいうのには、「われわれ親子は二十年以上も州を統治してきたが、人々に恩徳を施したことはなかった。人々が三年もの間攻戦にあけくれ、草野に肌をさらし、あぶらを流したのは、私劉璋のせいだ。どうして平気でいられようか。」かくて城門を開いて降伏した。涙を流さない臣下は一人もいなかった。劉備は劉璋を南郡の公安にうつして、ことごとく劉璋の財物ともとおびていた振威将軍の印綬をかえしてやった。

孫権が関羽を殺害して、荊州を奪取したとき、劉璋を荊州の牧に任じて秭帰に駐屯させた。劉璋はまもなく没した。享年不明。


見解

張松が曹操を訊ねたときのことを習鑿歯はいう。昔、斉の桓公がひとたびおのれの功績を誇ると、反乱する者は九カ国に及んだ。曹操のわずかの間慢心におちいると、天下は三つに分かれた。どちらの場合も数十年もの間努力し続けたことを、一瞬のうちに棄て去ることになったのである。なんと残念なことであろう。だからこそ君子は日が暮れるまで謙虚さをもって努力し続け、人にへりくだることを考え、手柄が高くとも謙譲の態度を持し、地位が尊くても低姿勢をとり続けるのである。一般の人々に近い心情をもっているからこそ、高貴であっても人々からその重さを嫌われず、民衆にゆきわたる徳を具えているからこそ、事業は広大となり天下からいよいよその恵みを喜ばれるのである。そもそもこのようであるからこそ、その豊貴を保ち、その功業を保持して、その時代においては隆盛となり、百代の後までも幸福を伝えることができるのである。けっして慢心してはならない。君子はこのことから曹操がけっきょく天下を併合できなかった次第を理解するのである。


評価

陳寿は、劉璋は英雄としての能力もないのに、領土を占めて世の中を混乱させた。柄にもない地位につき、領地を狙われるはめに陥ったのは、自然の道理である。彼が土地や官位を奪い取られたのは不幸とはいえないであろう、と酷評している。

張燔は、劉璋は愚かで脆弱な男であったが、善言を守った。無道の君主というほどではない、と擁護している。