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姓名 | 劉焉 |
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字 | 君郎 |
生没年 | ? - 194年 |
所属 | 後漢 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 動乱に乗じて益州をまとめ、反乱を治めた皇族、政治家 |
主な関連人物 | 劉表 劉璋 董扶 |
関連年表 |
188年 益州刺史となる |
劉焉、字を君郎といい、江夏郡竜陵県の人、漢の魯の恭王劉余(景帝の第4子)の後裔である。子は劉範・劉誕・劉瑁・劉璋らがいる。
章帝の元和年間に竜陵に国がえされ、分家がここに居を定めた。
劉焉は若くして州や郡の役所に勤め、王族のため、中郎に任じられたが、後に先生の祝公がなくなり、その喪に服するという理由で官を去った。陽城山に住んで、学を積み人々に教え、賢良方正に推拳されて、司徒の幕客となり、洛陽令、冀州刺史、南陽太守、宗正、太常を歴任した。
劉焉は霊帝の政治が衰え乱れ、王室が多難であるのをみて、「刺史や太守は賄賂で官職につき、民を虐げ、その結果、離反をまねいております。清廉の評判の高い重臣を選んで、地方の長官とし、国内を鎮定すべきだと存じます」と意見を具申した。劉焉は心中、交阯の牧となることを希望し、世の混乱を避けたいと願っていた。その献言がなかなか実施されないでいるうちに、侍中の広漢の董扶がひそかに劉焉に「都はいままさに乱れんとしており、益州の分野には天子の気がございます」と告げた。劉焉は董扶の言葉を聞いて希望が益州へ変わった。
ちょうどそのころ益州刺史の郤倹の課する租税がでたらめであったため、流言飛語が遠方まで聞こえわたり、一方、并州では刺史の張壱が殺され、梁習では刺史の耿鄙が殺されたので、劉焉のかねての計画は実現をみた。地方に出て監軍使者となり、益州の牧を兼務し、陽城侯に封ぜられ、郤倹を逮捕し、その罪の取り調べにあたることになった。董扶もまた蜀郡西部の属国都尉となることを希望し、さらに太倉令の巴西の趙韙も官を棄てて、いっしょに劉焉につき従った。
このとき劉虞を起用して幽州の牧に、劉焉を益州の牧に劉表を荊州の牧に、賈琮を冀州の牧に任命した。劉虞らはいずれも天下に清廉と評判にされていた人物であり、そのうちには列卿や尚書から選ばれて州の牧伯になったものもあったが、それぞれもとの位階のままで任についた。古くからの規則では、伝車は三頭の馬にひかせ、車の垂れ幕には赤を用いた。
帝は劉焉を引見し、方策を宣示したうえに、賞賜与え、劉焉に益州刺史の詔勅を下した。「前刺史の劉儁・郤倹はいずれも貪婪・放埒、賄賂をうけとりでたらめをきわめていた。民は頼りにするものもなく、怨嗟の声が野に満ち満ちている。劉焉よ、到着するやただちに逮捕して法を施行し、万民に示せ。このことを人に洩らすな。腫瘍がつぶれれば、国にとって災難をもたらすことになる」と。劉焉は命を受けて益州におもむいたが、道路が通じなかったため荊州の東境にとどまった。
このころ益州の逆賊馬相・趙氏らは綿竹県においてみずから黄巾と号し、役務に疲れきった民衆を寄せ集めて一、二日のうちに数千人を手に入れ、まず手始めに綿竹県の県令李升を殺害し、官民を糾合して合計一万余人にふくれあがった。たちまち進攻して雒県をうち破り、益州を攻撃して刺史の郤倹を殺害し、さらに蜀郡・犍為に到達し、一カ月のうちに三つの郡を突破した。馬相はみずから天子と称し、その軍勢は五けたの数に達した。益州の従事賈龍は私兵数百人をもって犍為の東境にいたが、官民を配下に収め、千余人の手勢を獲得して馬相らを攻撃し、数日にして敗走させ、州内は平穏になった。賈龍はそこで吏卒を選んで劉焉を迎えにやった。劉焉は綿竹県に役所を移し、離反した者たちを手なづけて受け入れ、つとめて寛容と恩恵を旨として政治を行いつつ、ひそかに独立の計画を推し進めた。張魯の母ははじめ巫術を使ったうえに、若々しい姿をしていた。いつも劉焉を督義司馬として漢中に派遣し、谷にかかった架け橋を断ち切らせ、漢の使者を殺害させた。劉焉は上書して、「米賊が道路を遮断したため、もはや都と連絡ができなくなりました」と述べる一方、別のことにかこつけて、州内の豪族王咸・李権ら十人あまりを殺し、自己の権力を示した。犍為太守の任岐および賈龍は、この事件によりそむいて劉焉を攻撃したが、劉焉は任岐と賈龍を撃破し殺害した。
劉焉は旗あげしたものの、天下の人々と協力して董卓を討伐しようとせず、益州を保持して自己の地位を守るのみだった。犍為太守の任岐は勝手に将軍と名乗り、従事の陳超とともに兵をあげ劉焉を攻撃したが、劉焉はこれを撃破した。董卓は司徒の趙謙に軍隊を統率させて益州にむかわせ、校尉の賈龍を説得して、軍隊を引き返して劉焉を攻撃させた。劉焉は青羌を出陣させて彼らと戦わせたため、賈龍を討ち破り殺すことができた。
議郎の河南の龐羲は劉焉と祖先以来の交際があったので、劉焉の孫たちに呼びかけ、ひきつれて蜀に入国した。
劉焉は落雷による火災のため城郭を焼失し、車具の類をすっかり灰にし、延焼によって民家にまで被害を及ぼした。劉焉は役所を成都に移したが、死んだ子供たちに対する悲しみうえに、災異を気に病み、興平元年、悪性の腫瘍が背中にできてなくなった。享年不明。
劉焉の意気は次第に盛んになり、乗輿と車具を千乗以上こしらえた。荊州の牧劉表は、劉焉には子夏が西河において、聖人の論をまねたのに似たところがある、と上奏した。
陳寿の評では、劉焉は董扶の言葉を聞くと益州の地に心を向け、占い師の言葉を聞くと呉氏との婚姻を求め、急いで天子のみくるま・冠服を造り、神器を盗もうとしなかった。その判断力のなさには、はなはだしいものがある、としている。
『三国志演義』では、黄巾の乱の時に幽州太守を務め、その時に劉備らと出会った事にされているが、正史では劉焉が幽州太守(刺史・州牧)に任命された事実は無い。
しかし、これが後に息子の劉璋が劉備を益州に迎え入れて、劉備を遠縁の親族として兄事する伏線となっている。