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曹操と劉備の英雄論

後漢伝


陶謙 恭祖とうけん きょうそ

姓名陶謙
恭祖
生没年132年 - 194年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評才能を買われて反乱平定に尽力し、徐州を統治した群雄
主な関連人物 張温 趙昱 劉備 
関連年表 185年 議郎となる
192年 安東将軍・徐州牧・溧陽侯となる

略歴

陶謙、字を恭祖といい、丹揚郡の人である。子は陶商、陶応らがいる。

若い時から学問が好きで、大学の学生になり、州と郡に出仕して、茂才に推挙され、盧県の令に任命された。

西羌族が西方の国境地帯をあらした。皇甫嵩が征西将軍に任ぜられ、上表した武将を要請したので、陶謙を召し寄せて揚武都尉に任命し、皇甫嵩とともに西羌を討伐させ、さんざんにこれを撃ち破った。

幽州刺史に昇進し、中央に召し出されて議郎に任命された。

辺章と韓遂が反乱をおこしたとき、司空の張温が征伐せよとの命令を受けた。陶謙に参軍事に就任することを要請し、たいへんに厚遇した。しかし、陶謙は張温の指揮ぶりを軽蔑して、内心反感を抱いていた。戦が終わって、軍が帰ってくると、百官が集まって大宴会が催された。張温は酒をついでまわるようにと陶謙にいいつけたところ、陶謙は満座の中で張温を侮辱した。張温は立腹して、陶謙を辺境地帯に左遷した。

ある人が張温に進言し、「陶恭祖はもともと才能と知略によって、公から重用されておりましたのに、いったん酒に酔ったうえでの過失があったとなると、お目こぼしにもあずからず、不毛の荒地に追放なさり、大きな恩徳はまっとうされませんでした。天下の人士は誰に望みを託したらよいのでしょうか。お怒りを沈めて、彼をもとの身分に戻し、それによって美徳の評判を遠く響きわたらせられるにこしたことはありません」というと、張温はその意見をもっともだと思い、陶謙を帰還させた。陶謙が到着すると、そのひとはまた陶謙に謝罪するようにいって、陶謙は「承知した」と答えた。その人はまた張温に向って、彼の気持ちをいたわってくれるようにいった。そのとき、張温は宮殿の門のところで陶謙と出会ったが、陶謙は張温を仰ぎ見て、「私は朝廷にお詫びにあがったまでで、公のためではありません」といった。張温は、「恭祖のうつけはまだなおらないのかね」といって、彼のために酒席を張り、最初と同じように厚遇した。

おりしも徐州の黄巾の徒が蜂起したため、陶謙を徐州の刺史に任命した。彼は黄巾の賊を攻撃して、これを敗走させた。

董卓の乱が勃発して、州や郡は兵をあげた。天子は長安に都をうつされ、四方との交通は途絶した。陶謙は使者をさしむけて間道づたいに貢物を献上したため、安東将軍、徐州の牧に昇進し、溧陽侯にとりたてられた。

この当時、徐州の住民は裕福で、穀物も充分豊かだったので、居地を離れて流浪する民衆の多くが、ここに身を寄せた。しかしながら陶謙は、道義にそむき感情にまかせて行動した。広陵太守の趙昱は、徐地方の名士であったにもかかわらず、忠義で正直な人柄のためにうとんじられ、曹宏などは、邪悪な小人物であったにもかかわらず、陶謙はこれを信頼し任用するというありさまだった。

刑罰と法律は均衡を失って、善良な人々の多くはひどいめにあわされ、このために、次第に混乱が深まっていった。下邳の闕宣は、自分勝手に天子と称していたが、陶謙は最初、彼と同盟を結んで略奪を働いていた。後になってけっきょく闕宣を殺害して、その軍勢を吸収した。

193年、曹操の父曹嵩が陶謙の管轄である泰山で張闓らに殺害されたため、陶謙に責任がかぶせられた。曹操は州と郡の軍隊を解散させるように上表して詔勅した。陶謙は詔勅を受け取ると、上表文をおくって軍を解散しない意志をあらわにした。そこで曹操は陶謙を征討し、十余城を攻め落とし、彭城まで行って、大会戦となった。陶謙の軍は敗走し、死者は万単位にのぼった。陶謙は守りをかためて、青州刺史の田楷と劉備もまた軍兵をひきつれて陶謙を救援した。曹操は兵糧が乏しかったために、軍をひきあげて帰途についた。

陶謙は、救援にかけつけた劉備を引きとめ、豫州刺史に推挙して小沛に駐屯させ、丹揚の兵四千余人を与えて厚遇した。

194年、曹操は再度東方征伐を行い、陶謙はおじけづき、丹揚に逃げ帰ろうとした。おりしも、張邈が叛旗をひるがえして、呂布を迎え入れたので、曹操は引き返して呂布を攻撃した。

この年、陶謙は病が重くなり、子の陶商・陶応が揃って政務をまとめるに至らない理由で、糜竺に徐州を劉備に譲るよう遺言を託し、間もなく死去した。享年63。


逸話

陶謙の父はもと余姚県の長であった。陶謙は幼くして、父をなくしたが、最初は人の世話にならないことで、県内で評判をたてられた。十四歳になっても、まだ絹布を綴りあわせて軍旗を作り、竹馬に乗り、村中の子供たち全部をひきつれて遊んだ。もとの蒼梧太守で同じ出身地の甘公が外出の途中で彼と出会い、その顔かたちを見て、おもしろいと感じ、彼を呼び止め、馬車を止めて語り合い、たいそう気に入った。このために、自分の娘を彼の妻にすると約束した。甘公の夫人がこの話を聞いてひじょうに腹を立て、「陶家の息子はけじめもなく、気ままに遊びほうけていると聞いておりますのに、どうして娘をやるなどと約束なさったのです」というと、甘公は、「彼は、人なみはずれた容姿をしている。成長すれば必ず大成するだろう」といい、そのまま結婚させたのだった。

若くして孝廉に推挙され、尚書郎にとりたてられ、舒県の令に任命された。廬江郡の守の張磐は、同郡出身の先輩であって、陶謙の父の友人だったことから、特に彼に親近感をもっていた。しかし陶謙のほうでは、張磐に頭を下げることをいさぎよしとしなかった。陶謙が人々とともに郡城へ戻り、公務報告のために目通りし、会見が終わって退出したあと、張磐はいつもこっそりと戻ってきて、陶謙と一杯やったが、時には陶謙が拒絶して留まろうとしないことがあった。またいつも、張磐は自分のあとにつづいて陶謙に舞うように所望し、陶謙が立ち上がらないでいると、しつこく無理じいした。陶謙はやむをえず舞い始めても旋回しなかった。張磐が、「旋回すべきじゃないかね」というと、陶謙は、「旋回することができません。旋回すると、他人を抑えることになりますので」と答えた。このことから張磐は不愉快になり、ついに二人は不仲になった。陶謙は役人として清廉潔白だったが、犯罪を追及することをしなかった。霊星を祭る際、余剰金五百金が残り、それを系官が着服しようとしたため、陶謙は官位を棄てて去った。

曹操の父曹嵩の殺害について諸説がある。

魏志『武帝紀』
曹操の父曹嵩は退官して一度故郷に戻ったのだが、董卓との戦いが始まると、戦禍を避けて瑯邪に逃れた。そこを陶謙が襲って殺害した。

魏志『世語』
曹嵩は泰山郡の華県に居た。曹操は迎えを出したが、陶謙が先回りして兵を出したのでみな殺されてしまった。

『呉書』
陶謙は、曹嵩が領内を安全に通行できるよう、張闓を護衛につけた。しかし、泰山郡の華県・費県の間を通行中、張闓は曹氏の莫大な財産に目が眩み、曹嵩らを殺害し財産を持ち逃げした。曹操は陶謙に責任を取らせるため、攻め込んだ。


評価

『呉書』にいうと、陶謙は剛直な人柄で、節義のある人物であった、としている。

呉の張昭らは陶謙のために哀悼の辞を作り、「武力にすぐれ、学問に秀でて、剛直そのもの、温厚、慈愛の態度を貫かれた」と評した。

陳寿の評では、惑乱して憂死し、州郡を支配しながらかえって一平民にも劣る者であり、実際論評に値しない、としている。

かつて張昭などの地元の名士を無理矢理仕官させようとし、従わぬと一時幽閉したとされている。

孫策を忌み嫌い、孫策が江都の家族を呼び寄せようと使者に出した呂範を、袁術の内偵と疑って捕らえたことがあるという。