登録人物伝 326 名 | 127人が閲覧中
姓名 | 張楊 |
---|---|
字 | 雅叔 |
生没年 | ? - 198年 |
所属 | 後漢 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 献帝の長安脱出の際に、手助けして洛陽へ迎えた人物 |
主な関連人物 | 呂布 袁紹 丁原 |
関連年表 |
188年 司馬となる 191年 建義将軍・河内太守となる 196年 大司馬となる |
張楊、字を雅叔といい、雲中郡の人である。
武勇によって并州で採用され、武猛従事となった。
霊帝の末期、天下が混乱したので、霊帝は寵愛していた小黄門の蹇碩を西園上軍校尉に任じ、首都に駐屯させて、四方を抑えたいと考え、天下の豪傑を召し寄せて副将に任命した。曹操や袁紹らはみな校尉として、彼に所属した。虎賁中郎将の袁紹を中軍校尉に、屯騎校尉の鮑鴻を下軍校尉に、議郎の曹操を典軍校尉に、趙融と馮芳を助軍校尉に、夏牟と淳于瓊を左右校尉に任命した。
并州刺史の丁原は張楊に軍隊を統率させ蹇碩のもとへ参上させたところ、張楊は臨時の司馬に任命された。
霊帝が崩御されると、蹇碩は何進によって殺害された。張楊はふたたび何進に派遣されて故郷の并州に帰還し、軍兵を募り、千人あまりを集めると、そのまま上党にとどまり山賊を討伐した。
何進が敗北し、董卓が乱を起こした。張楊はそこで配下の軍勢をひきいて壺関にいた上党の太守を攻撃したが、攻め落とすことができず、諸県を荒らしまわっているうちに、その兵は数千人に達した。山東では董卓討伐を目的として、旗あげがなされた。
その盟主の袁紹が河内まで来たとき、張楊は袁紹に合流し、さらに匈奴の単于於夫羅といっしょに漳水に駐屯した。於夫羅は反逆を図ったが、袁紹と張楊は同調しなかった。於夫羅が張楊をひっ捕らえて自分とともに連れ去ったため、袁紹は大将の麹義に命じて追撃させ、鄴の南において、これらを撃ち破った。
於夫羅は張楊を捕らえたまま黎陽に到着し、度遼将軍の耿祉の軍勢を攻撃して撃ち破り、ふたたび勢力を盛り返した。
董卓は張楊を建義将軍・河内太守に任命した。
天子献帝が河東におられるとき、張楊は兵をひきつれて安邑県に参上したため、安国将軍の位を授けられ、晋陽侯にとりたてられた。張楊は天子をお迎えして洛陽に帰ろうとしたが、諸将が反対した。張楊は河内の野王県にひきあげた。
196年、楊奉・董承・韓暹が天子をかかえてもとの都へ立ち戻ったが、食糧が欠乏していた。張楊は食糧を用意して道の途中で出迎え、かくして洛陽にたどりついた。
張楊は諸将に向って、「天子は天下の人々みんなのものであるはずだ。幸いにして公卿大臣がおられることだし、わしは外難の防止にあたるべきだ。どうして都の事に専念しておられようぞ」といい、かくして野王に帰った。即刻、張楊は大司馬の位を授けられた。
張楊はかねてから呂布と仲が良かった。曹操が呂布を包囲した際、張楊は呂布を救援したいと思ったができなかった。そこで、野王県の東の市場に出兵して、はるかに声援を送った。
張楊の将の楊醜が、曹操に味方しようとして張楊を殺害した。享年不明。
『英雄記』によると、張楊は慈愛深く温和な性格で、悪人に対して威圧したり刑罰を加えることができなかった。奴僕が謀叛をくわだてて発覚したとき、彼に向って涙を流すなど、ただちに許して不問に付した。