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曹操と劉備の英雄論

後漢伝


逢紀 元図ほうき げんと

姓名逢紀
元図
生没年? - 202年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評冀州を袁紹に奪わせて、諫言で忠臣を退けた人物
主な関連人物 袁紹 審配 郭図 袁尚 
関連年表 200年 官渡の戦い

略歴

逢紀、字を元図といい、荊州南陽郡の人である。

189年、董卓の暴戻に反撥した袁紹が冀州に逃亡した時、逢紀は許攸とともにこれに随った。袁紹は彼が聡明で計略に長じていたので深く信頼し、ともに旗挙げした。

191年、袁紹麾下に審配が参加したが、逢紀との間がうまくいかなかった。

ある人が袁紹に審配を讒言すると、袁紹は逢紀にその言葉が当たっているかどうかを問うた。逢紀は「審配はうまれつき烈直な性格で、古人の節義を持っており、彼に疑念を持たれるのは宜しくありません」と答えた。日頃、二人の仲の悪さを知っていた袁紹が「君は彼を憎んでいたのではないか」と訊くと、逢紀は「彼と争ったのか私情から出たものであり、今申し上げているのは国家の事です」と答えた。袁紹はこれを善しとして、そのまま審配を任用した。審配はこのことがあって、改めて逢紀と親しくなった。

袁紹は冀州の牧韓馥が公孫瓚の来攻を恐れているのを知り、部下に命じて州を譲り渡すのが身のためだと言わせた。韓馥は怯えてすぐさま袁紹に冀州を与えてしまった。『英雄記』は袁紹に冀州は奪取を勧めたには逢紀であると記している。

200年、官渡で敗れた袁紹が田豊の進言を用いなかったことに悔いると、逢紀は、田豊がいまごろ笑って敗戦を罵っていると諫言した。その後、袁紹は田豊を処刑してしまった。

202年、袁紹が死ぬと、跡目争いが長子袁譚と末子袁尚の間に起きた。逢紀と審配は袁尚に味方し、辛毗と郭図は袁譚を推した。審配らは袁尚を奉じて袁紹の位を継がせた。袁譚は青州から戻ったが後を継げず、自ら車騎将軍と号し、袁尚との間がしっくりゆかなくなった。

この年、曹操は二人の攻撃に向かった。袁譚は黄河北岸の黎陽に進出して布陣した。この時、鄴にいる袁尚は兄に少数の兵しか与えず、しかも逢紀を兄の行動の監視役として付き従わせた。苦戦した袁譚はさらに援軍を要求したが、袁尚・審配はこれを認めなかった。

袁譚は怒って逢紀を殺害した。


評価

袁尚も逢紀の妻子を処刑したとしている。袁尚からも処断を受けた原因は不明だが、逢紀が袁譚派と袁尚派を二股して利己を図ったか、あるいは両派の融和を図って失敗した等が考えられる。少なくとも審配と逢紀が再び仲違いしていたことだけは窺えよう。

曹操の参謀荀彧は、「逢紀は、向こう見ずで自分のことしか考えない」と痛烈に批評した。


演義

『三国志演義』でも登場し、その事跡は史実とほぼ同様である。なお、袁譚のところへ赴いた経過は、以下のように描かれている。

郭図が袁尚に救援を求める使者として訪れた際、郭図は袁譚の参謀として審配か逢紀のいずれか1人を派遣するよう袁尚に強く求める。このため袁尚は已む無く2人に籤を引かせたが、逢紀が当たり籤を引いてしまう。もちろん郭図の狙いは、単に人質を捕るためのものだったとしている。