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後漢伝


袁紹 本初えんしょう ほんしょ

姓名袁紹
本初
生没年? - 202年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評三公を排出した名門の家柄、一大決戦で曹操と争う
主な関連人物 何進 袁術 袁譚 袁尚 曹操 
関連年表 190年 董卓討伐
192年 冀州を手に入れる
197年 大将軍となる
199年 幽州・青州を併合する
200年 官渡の戦い

略歴

袁紹は字を本初といい、汝南郡汝南県の人である。叔父に袁隗、異母兄に袁基、子は、袁譚、袁煕、袁尚がいる。また袁買という人物には「袁紹の庶子」「袁尚の兄の子」という二説がある。袁術は異母弟である。

曽祖父の袁安は、漢朝の司徒であった。袁安以下四代続いて三公の位にあり、そのため天下の人々に大きな影響力をもっていた。袁紹堂々として威厳のある風貌をしていたが、身分にこだわらずよく士人に対して下手に出たため、大勢の人が彼のもとに身を寄せた。

曹操も若いときに彼と交際があった。大将軍何進の縁から推挙されて侍御使となった。やがて中軍校尉に昇進し、司隷校尉に登った。

霊帝が崩御すると、何進は袁紹と宦官誅殺を計画したが、何皇后は承知しなかった。そこで董卓を召し寄せることで、圧力をかけようとした。しかし、中常侍の段珪によって何進は殺害され、宮中は混乱状態となった。段珪は少帝と陳留王をむりやり連れ出し、小平津に逃走した。袁紹は、司隷校尉の許相を斬ったのち、兵を指揮して宦官たちをとらえ、皆殺しにした。死者は二千人余りあった。その後、董卓とともに少帝は無事に帰還した。

董卓は袁紹を呼び寄せ、少帝を廃して陳留王を立てたいと相談を持ちかけた。袁紹は表向き賛成しておいて、そのまま冀州に逃亡した。董卓は袁紹が諸侯らと事変することを恐れ、袁紹を渤海太守に任命した。

袁紹はかくて渤海から挙兵して、董卓を処罰しようとした。

190年、橋瑁の呼びかけ(小説『三国志演義』では曹操)で諸侯が董卓征討の兵を起こし、連合軍が結成されたときは、きっての実力者だった袁紹が盟主に推挙された。この時、盟主に袁紹を推挙したのは、曹操だったといわれている。

191年、冀州牧の韓馥とともに、幽州牧の劉虞を皇帝に立てようとしたが、劉虞はこれを受けなかった。そのとき、公孫サンは冀州を狙って韓馥を攻撃した。韓馥は内心不安だったのをつけこみ、高幹、荀諶らを派遣して、韓馥に冀州を袁紹に譲渡するように説得した。袁紹は冀州を手に入れた。

董卓は袁紹が関東を手に入れたことを知るや、袁紹の一族、太傅の袁隗らをことごとく処刑した。みな袁隗の復讐するという名分を借りて、挙兵の理由とした。

従事の沮授の進言により、青州・并州・幽州を併合する計画をたてた。公孫サンと界橋で合戦することになったので、先鋒として麹義を派遣して争った。

192年、異母弟の袁術と対立が激しくなり、エン州において曹操と共に袁術を打ち破り、袁術を寿春へ退かせた。

郭図が帝を迎えるよう進言したが、袁紹は帝・献帝が即位したことを本意ではなかったので、これを拒否した。曹操が帝を迎えて、河南・関中を服従したので、これを後悔した。

197年、帝より大尉に任命された。袁紹は、位が曹操より下位であることを恥とし、立腹していた。曹操はこれを聞くと、大将軍の位を譲り、あらためて袁紹は大将軍に任命された。

199年、地下道を掘り進めて易京を陥落させて幽州を手中に収め、公孫サンを滅亡させた。河北四州を手に入れて、一大勢力となった。

200年、曹操が徐州の劉備を攻撃したので、参謀の田豊は、曹操の後方より襲うように進言したが、袁紹は息子の病気を理由にこれを拒絶した。劉備は敗れて、袁紹を頼った。

袁紹は、審配、逢紀に軍の事務を統括させ、田豊、荀諶、許攸を参謀に、顔良、文醜を将帥に任命し、精鋭十万、騎兵一万を選り抜いて、曹操の本拠地を攻撃しようとした。

顔良を派遣して、白馬にいる劉延を攻撃させた。沮授は、顔良一人まかせてはいけないと、袁紹を諌めたが聞き入られなかった。曹操は、劉延のもとへ救援をかけつけさせ、顔良は敗北して斬り殺された。

その後、袁紹は文醜と劉備を派遣させて、延津に砦を築き、曹操に挑戦した。曹操はこれを撃破して文醜は斬り殺された。曹操は官渡に立ち戻った。沮授は、南方(曹操)の食糧問題を指摘して、持久戦を進言した。しかし、袁紹は聞き入られなかった。

袁紹は少しずつ官渡に接近し、合戦となった。曹操軍は、長期の疲弊で袁紹軍へ寝返る者多かった。袁紹は勝利を確信して、輸送部隊を襲う曹操を放置した。烏巣の淳于瓊が曹操に襲撃され敗れた。さらに本隊将軍の高覧と張コウが手勢をひきつれて曹操に降伏した。袁紹の軍勢は総崩れとなり、袁紹は敗れた。

冀州の町の多くが叛旗をひるがえした。袁紹はそれらを撃破して再び平定した。官渡で敗れた後に発病し、202年、憂悶のうちに死去した。その後、袁紹は後継者を公表していなかったので、袁譚と袁尚の間で、権力争いを起こした。


評価

『三国志』の編者である陳寿は「袁紹の威容は堂々としていて名は世に知れ渡り、河朔に割拠した。しかし外面は寛大に見えるが、内面は猜疑心が強く、謀を好みながら決断力に欠けていた。良い人物がいてもこれを用いることが出来ず、良い言葉を聴いてもこれを実行に移すことが出来なかった。長子を廃して庶子を後継に立て、死後に国を失ったことも不幸な出来事とは言えない」と評している。なお、陳寿は袁紹と劉表を似た者と考えていたらしく、上の評をこの2人に対して送っている。曹操や孫権の後継ぎ争いでも、悪例として袁紹と劉表はしばしば諫言の引き合いに出された。

『三国志』の記述は魏、すなわち曹操の一族を中心にした立場を取っており、曹操の仇敵に対しては実質以上に貶されている可能性もあるが、概ね決断力の無さや器量の不足を指摘されている。


見解

生前に明確な後継者を選んでいなかったことが彼の死後に災いして、袁氏勢力は長男の袁譚派(郭図、辛評ら)と末子の袁尚派(審配、逢紀ら)に分裂する。袁譚、袁尚は相続を巡り骨肉の争いを繰り広げ、その間隙を曹操に付け込まれ、各個撃破される形で袁氏は滅亡した。