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後漢伝


陳珪 漢瑜ちんけい かんゆ

姓名陳珪
漢瑜
生没年生没年不詳
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評朝廷に仕え続け、袁術と呂布を手玉に取った人物
主な関連人物 呂布 袁術 陳登 
関連年表 不明

略歴

陳珪、字を漢瑜といい、徐州下邳の人である。従父は陳球、従兄弟は陳瑀、陳琮、子は陳応、陳登らがいる。

陳珪と袁術は、互いに三公を出した家柄の子弟同士だったので、若いころから往来があった。

193年、袁術は曹操・袁紹の連合軍に敗れ、南下して揚州刺史陳瑀を追放、州を手中にした。袁術は陳珪に書簡を送って、昔の誼で協力してほしいと伝え、同時に陳珪の次男陳応を脅して人質とした。どうあっても陳珪を呼び寄せるつもりだった。

これに対して陳珪は「衰えたりとはいえ、漢には亡奉のような暴政はなく、秩序は失われていない。曹将軍は時代の要請に答えて、四海を平定しようとしているのは明らかだ。足下もこれに協力すると思っていたのに不軌を図ろうとは。私は足下に同調するなど、死んでも出来ない」と答えた。

197年、袁術は、寿春において自ら皇帝と称した。そして呂布と結んで勢力を強めようとし、呂布の女を自分の息子の嫁にほしいと申し入れた。陳珪は彼らが姻戚となれば、呂布の徐州と袁術の揚州が合従して、国家の患いになると危惧した。そこで呂布を訪れて、曹操に強力せず、もしも袁術と婚姻を結べば、天下から不義の名を被せられ、身を累卵の危うきに置くことになると説いた。

こう聞くと、呂布はかつて袁術が自分を受け入れてくれなかった恨みを思い出した。袁術が派遣した使者韓胤を同行して、女はすでに揚州に向かっていたが、これを追って連れ戻し、韓胤を曹操の所へ送った。韓胤は許において斬られ、さらし首にされた。

陳珪は子の陳登を使者にして曹操を訪れさせようとしたが、呂布は警戒して許さなかった。そこに曹操の使者が到着して、呂布を左将軍に任命した。呂布は大いに喜んで、礼状を携えて陳登が使者に立つことを許した。

陳登は曹操に、呂布は勇あって計なく、去就を軽んじる男ゆえ、早くこれを滅ぼす手段を講ずべきであると説いた。

曹操は「呂布のような狼は久しく養い難い。卿でなければ、事情をよく見究めてもらえないか」と言い、陳珪の扶持を中二千石に増し、陳登を広陵太守に任じた。帰国した呂布がこれを知って怒り、陳登が巧みに言い抜けた。

呂布が婚約を破棄した上、曹操と結んだことを知った袁術は激怒し、韓暹・楊奉と連合戦線を組んだ。そして将軍張勲に命じて呂布を攻撃させた。

呂布は「こうなったのは卿のせいだ。どうしてくれるか」と陳珪に問うた。陳珪は「韓暹・楊奉・袁術の軍は速成の軍に過ぎません。作戦も前から決めたものではなく、協力態勢を久しく維持するのも不可能です。息子の登は、彼らは一本の木に群がる鶏のようなもので、止まり木にいつまでも一緒にはいられない、必ず彼らを分裂させられる、とかんがえております」と答えた。

呂布は陳珪の策を用いることにした。韓暹・楊奉に使者を送って、「自分と力を併せて袁術の軍を撃とう。軍需品は全て君らに与える」と答えた。

彼らはこれに応じ、張勲率いる兵は大敗した。その後、呂布は韓暹・楊奉とともに、袁術の本拠寿春に向かい、途中掠奪を働きながら鍾離まで進み、莫大な戦利品を得て軍を還した。


評価

陳珪の行事は『魏書』袁術伝と呂布伝に断片があるだけで、右以外、どんな活躍をしたか、また何歳で亡くなったか、何もわからない。

『魏書』によると、陳珪の墓は徐州下邳国(現在の江蘇省邳州市)の帰正県にあったという。

魏の司馬となり、遼東の公孫淵討伐に参加し、司馬懿の参謀役を務めた人物に、同姓同名の陳珪という人物がいる。本記事の陳珪との関係は不明であるが、年齢的に少し無理があると考えられる。


演義

『三国志演義』では、第十六回から十八回にかけて、陳珪父子が言葉巧みに呂布を丸め込む経緯を描く。第二十一回、許を脱出した劉備を、曹操は車胄に命じて騙し討させようとした。陳登は馬を駆って危急を劉備に知らせたとあるが、これは羅漢中の創作である。