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曹操と劉備の英雄論

後漢伝


陳登 元龍ちんとう げんりゅう

姓名陳登
元龍
生没年生没年不詳
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評文武両道として才能を発揮し、劉備曹操に評価された人物
主な関連人物 呂布 陳珪 
関連年表 194年 典農校尉となる
195年 広陵太守となる
198年 伏波将軍となる

略歴

陳登、字を元龍という。父は陳珪、子は陳粛がいる。

25歳で孝廉に推挙され、東陽の県長に任命され、人々を慈しんだ。

後に徐州の牧陶謙は上表して典農校尉とした。陳登はその土地に適した産物を調べ、堀を掘って潅漑の利をもたらしたため、否が豊かに実った。

陳登は父陳珪と謀って、呂布と袁術が合従しないよう計を運らしたり、曹操の所に使者として訪れ、早く彼を滅ぼす方策を建てなければならないと忠告したりした。

また、江東の孫策兄弟の勢力を抑えるべしと曹操に進言したこともあって、曹操は長江を前にすると、「早く陳元龍の計画を用いていれば、彼らの爪牙をここまで生長させなかったであろう」と、いつも残念がった。

陳登の功曹の陳矯は、ある日、命じられて許の曹操に使いすることになった。陳登は「許しでの論議は私に対する評価が今一つである。足下はよく観察し、還ってから教えてもらいたい」 と依頼した。

陳矯は戻ると「遠近の論を聞いたところ、明府はいくらか矯慢で自惚れがあるとのことでした」と答えた。すると陳登は「家庭が仲睦まじく徳行がある点では、私は陳元方兄弟を敬っている。淵や玉のごとく清らかで、礼法に叶っている点では華子魚を敬っている。品性清く身を修め、悪を疾み、見識と義心に篤い天では趙元達を敬う。見聞・知識が広く、人から高く抜きんでている点では孔文挙を敬う。雄姿傑出、王覇の才略がある天では劉玄徳を敬う。これらの人を尊敬しているのだから、どうして矯慢と言えよう。余人をささたる小者で、取り上げるまでもない」

だが「矯にして自らほこる」と彼を見る人が多かったのは事実であった。

曹操によって広陵太守に任じられ、ひそかに呂布の動きに対処した。威恩並び行われ、人々は陳登を敬愛した。

曹操が呂布を討とうと下邳に到着すると、陳登は兵を率いて先鋒となった。下邳の城内には彼の三人の弟が捕らえられていたが、陳登は構わず攻撃した。弟たちは後難を恐れた呂布の部下に無事救出された。

呂布の誅殺後、陳登は伏波将軍を加えられた。彼は江淮の人心をよく把んでいたため、江南を併合する志を持つようになった。この形勢を見た孫策は、陳登の兵に十倍する大軍を派遣し、匡琦城を包囲した。陳登は屈せずよく戦い、功曹の陳矯を曹操の許に送って救援を要請した。救援軍が到着すると内外呼応して孫策の軍を大敗させた。

後に、陳登は39歳で病没した。


評価

陳登は忠亮・高爽で、沈深たる大略があった。若いころから世を扶け、民を済おうとする志があった。博く書物を読み、文才に優れ、古典を究め尽くした。

『三国志』には正式の伝がなく、『魏書』呂布伝に二百三十六字で付載されているだけで、後は注に引く『先賢行状』にややまとまった記述があるのに過ぎない。

しかし『三国志』に散見する彼に対する評価は非常に高い。これは『演義』も同じで、陶謙の死後、劉備に州牧就任を強く勧めたせいもあって、終始好意的に彼を描いている。

陳登はなかなかの策士だった。そしてまた、彼を「驕にして自らほこる」、驕り昂って自惚れが強い、という世評もあった。漢代の人士の常として、世評は大いに気にせざるを得ない。

劉表に身を寄せていた劉備の許汜が訪れたことがあった。許汜は張邈や呂布に身を寄せたこともある人で、名士としての評判が高かった。ある日、彼は劉備・劉表とともに天下の人物を論評した際、陳登を「陳元龍は湖海の士、豪気除らず」と評した。「湖海」には「世間」という意味もあり、「豪気」は才知あって人に屈しない気性をいった。

許汜は陳登を「世間並の男で、自分を才知を誇って謙虚さを缺いている」と評した。

劉備は劉表に「許君の論は正しいでしょうか」と問うと、劉表は「そうじゃないと言えば善士の許君を嘘つきにしてしまうし、そうだと言えば天下に重明ある元龍の名声と合致しない。さて、どうしたものか」と答えた。

劉備は許汜はその理由を問うと、彼は「昔、乱に遭って下邳を過ぎて元龍に見えました。ところが彼には客をもてなす気持がなく、しばらくは私と語ろうとしないばかりか、自分は大きな寝台に臥し、客である私を下に寝かせたからです」と説明した。

すると劉備は「今、天下は大いに乱れ、帝王は在るべき所を失くしている。国士の名がある君に望むことは、国を憂えて家を忘れ、世を済う意を持つことである。それなのに君は田地や家屋を求めるのに急で、これはという発言がない。これこそ元龍の嫌うことで、どうして君と語ろうか。小人なら自分は百尺の樓上に臥して、君を地面に寝かせるであろう。寝台の上下どころの差ではないぞ」と言い、劉表は聞いて大笑いした。

劉備は「元龍のような文武両道を兼ね、胆志を持った人物は、古代にこれを求められても、今の世にすぐには求められない」と称揚した。


演義

陳登は『演義』第十一回から第二十四回の間に登場する。伏波将軍に任じられた以降は全く姿を消してしまった。