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後漢伝


劉表 景升りゅうひょう けいしょう

姓名劉表
景升
生没年? - 208年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評荊州で一大勢力を統率しながら、優柔不断で時節を失った群雄
主な関連人物 黄祖 劉琦 劉琮 
関連年表 190年 反董卓連合に参加する
193年 鎮南将軍・荊州牧・仮節となる
200年 長沙謀叛の鎮圧
201年 劉備を迎え入れる

略歴

劉表、字を景升といい、山陽郡高平県の人である。前漢の景帝第四子である魯恭王・劉余の子孫。甥に劉磐、子は、劉キ、劉ソウがいる。

若いころから有名で八俊と呼ばれていた。身長は八尺以上もあり、容姿はたいへん立派であった。

劉表は同郡の王暢から学問を学んだ。王暢は南陽太守になったが、その行いは過度に倹約であった。劉表は当時十七歳であったが、進み出て諌めたが、王暢は聞き入れなかった。

大将軍何進の属官として北軍中侯の官に任命された。

霊帝が崩御されたとき、王叡の後任として荊州刺史となった。このとき山東から董卓討伐の挙兵がなされたが、劉表もまた軍勢を集めて襄陽に陣をしいた。

江南の宗賊の勢いがさかんであり、袁術が魯陽に駐屯し、南陽の軍勢をすべて手中におさめていた。呉の人である蘇代が長沙太守の官にあり、貝羽が華容県の長となっていたが、おのおの軍勢をたのんで命令に服さなかった。劉表は、宜城に単身でのりこんで、中廬の人であるカイ良、カイ越、襄陽の人である蔡瑁を招いて相談した。かくて、カイ越の計略で、宗賊に誘いをかけさせて、頭目五十五人がやってきたので、彼らをみな斬り殺し、その配下の軍勢を襲撃して取り押さえた。さらに、江夏の賊の張虎と陳生らも説得して降伏させた。こうして江南はことごとく平定された。

袁術が南陽にいたとき、孫堅と同盟して、南北から劉表の州を襲い奪いとろうとし、孫堅に劉表を攻撃させた。孫堅が流れ矢にあたって死亡し、敗北したので、袁術はけっきょく劉表に勝つことができなかった。

李カクと郭汜は長安に侵入すると、劉表と手を結んで味方につけたいと願った。そこで劉表を鎮南将軍、荊州牧に任じ、成武侯にとりたて、節を与えた。

天子が許に遷都されたさい、劉表は使者を派遣して貢物を献上することはしたが、しかし、北方の袁紹と同盟を結んでいた。治中のトウ羲が劉表を諌めたが、劉表は聞き入れなかった。

張済が軍隊をひきいて荊州の国境地帯に侵入し、城を攻撃してきたが、流れ矢にあたって死んだ。荊州の官吏たちはみな祝いを述べたところ、劉表は、張済が元々戦争するつもりではなかったことを理由に弔辞をうけたが、祝辞は断り、使者をやって彼の軍勢を迎え入れた。張済の軍勢はこの言葉を聞いて喜び、かくて服従した。

長沙太守の張羨が劉表に叛旗をひるがえした。劉表はこれを包囲したが幾年も陥落させられなかった。張羨が病死すると、長沙ではまたその子の張懌を立てた。劉表はそのまま攻撃を続けて張懌を併合した。南方の零陵・桂陽を手中におさめ、北方は漢川を抑え、その領地は数千里、武装兵は十万以上におよんだ。

曹操と袁紹が官渡で対峙している最中、袁紹は使者を送って、救援を要請したが、劉表は承諾しながら進発せず、また曹操の応援もせずに、長江・漢江一帯の地域を支配して、天下の形勢が変化するのを観望していた。従事中郎の韓嵩と別駕の劉先は、劉表に進言して、曹操と袁紹のどちらかを見極めて彼らの疲弊につけこむべきだといった。劉表は韓嵩を派遣して、曹操の実情を観察させた。韓嵩は帰還すると曹操の威光と恩徳について充分に説明し、その子を人質として送るように進言した。劉表は韓嵩が裏切って曹操の立場から発言しているのではないかと疑いをもち、立腹して殺害しようとしたが、韓嵩に他意がないことがわかってやっと疑いがはれ、殺害をとりやめた。しかし、韓嵩は拘禁された。

劉備が劉表のもとへ逃亡して来て、劉表は彼を手厚くもてなしたが、しかし任用することはできなかった。曹操が遼東の柳城を征討した当初、劉備は留守をねらって許を襲撃するように劉表に進言したが、劉表は聞き入れなかった。

最初、劉表とその妻は年下の子の劉ソウをかわいがって、跡継ぎにしたいと考え、蔡瑁と張允がこれのあとおしをしたので、長男の劉キを外へ出して江夏太守に任命した。かくて人々は劉ソウを後継者としておし立てた。

208年、曹操は劉表討伐に向かったが、まだ到着せぬうちに、劉表は病死した。その後、劉ソウは後継者となったが、曹操に降伏し、劉備は夏口に逃亡した。


評価

『漢紀』によると、劉表と同郡の人物、張隠・薛郁・王訪・宣靖・公諸恭・劉祇・田林は八交と呼ばれ、あるいは八顧とも呼ばれた。

『漢末名士録』によると、劉表と汝南郡の陳翔(仲麟)、范滂(孟博)、魯国の孔イク(世元)、勃海郡の范康(仲真)、山陽郡の檀敷(文友)、張倹(元節)、南陽郡の岑シツ(公孝)らが八友である。

劉表は政治に長けており、また戦続きの土地から安全な荊州に逃れてきた人々も相俟って、荊州は急速に発展した。また、その逃れてきた人々の中には名士の存在もあり、荊州には優れた人材が集まった。劉表は学問を奨励し、宋忠や司馬徽などといった学者も育った。

評では、劉表は威容は堂々としていて名は世に知れ渡り、江南に割拠した。しかし外面は寛大に見えるが、内面は猜疑心が強く、はかりごとを好みながら決断力に欠けていた。良い人物がいてもこれを用いることが出来ず、良い言葉を聴いてもこれを実行に移すことが出来なかった。長子を廃して庶子を後継に立て、死後に国を失ったことも不幸な出来事とは言えないとしている。

『世語』によると、劉表の死後八十年あまりたって、晋の太康年間に、劉表の墳墓が発掘された。劉表と彼の妻の姿かたちは生けるがごとくであり、かぐわしい香りが数里にわたってにおった。