そんか

孫和

字子孝 諡文皇帝 生没年224年 – 253年 所属呉

二宮の変に翻弄され、廃された呉の皇太子

能力値
統率 E
武力 E
知力 D
計略 E
政治 D
人望 C
関連年表
224年 孫権の三男として生まれる。母は王夫人
— 聡明にして学を好み、騎射にも長じて父に愛される
242年正月 兄・孫登の遺言どおり、十九歳で皇太子に立てられる
— 博弈を「事を妨げ用に益なし」として、韋昭ら八人に戒めの論を書かせる
242年 弟の孫覇が同等に遇され、二宮の変が始まる
240年代 全公主の二段の讒言により母・王夫人が憂死し、父の信を失う
250年 廃されて故鄣に幽閉される。諫めた者十数人が誅され、あるいは放逐される
251年頃 孫権が病床で悔い、召し還そうとするが全公主らに阻まれる
252年 孫亮の即位により南陽王に封じられ、長沙に住む
253年 諸葛恪の誅殺に連座し、孫峻から死を賜る(三十歳)
253年 妃・張氏が殉死し、側室の何姫は子を育てるため生き残る
264年 子の孫晧の即位により、文皇帝と追尊される

略歴

孫和、字を子孝といい、呉の大帝・孫権の三男である。黄武三年(224年)の生まれ。母は王夫人。 幼くして聡明で、学問を好み、騎射にも長じた。師に就いて学を修め、師傅を敬い、人物を愛したと史書は記す。父・孫権にとりわけ愛された子であった。 赤烏五年(242年)正月、兄・孫登の遺言のとおり、十九歳で皇太子に立てられる。阚沢が太子太傅となった。 東宮での孫和は、学問と実務を重んじた。臣下との宴席で囲碁や賭け事の話が出たとき、孫和は「博弈は事を妨げ、日を費やすばかりで用に益がなく、精神を労して結局なにも成し得ない」と論じ、侍坐する八人にそれぞれ戒めの論を著すよう命じた。これに応えて太子中庶子の韋昭が書き上げたのが『博弈論』であり、孫和はこれを賓客に示した。 ところが孫権は、太子を立てると同時に、弟の魯王・孫覇にも等しい待遇を与えた。これが宮廷を二分する大争乱の火種となる。太子を奉じる一派と魯王を担ぐ一派が激しく党争し、陸遜をはじめ多くの重臣が渦に巻き込まれて失脚し、あるいは命を落とした(二宮の変)。 孫和を直接に追い落としたのは、孫権の娘・全公主(孫魯班)の讒言であった。孫権が病んだとき、孫和が宗廟の祭祀に赴かず妃の縁者の家で密議したと告げ、続いて、孫和の母・王夫人が陛下の病を喜んでいると訴えた。王夫人は憂いのうちに死に、孫和は父の信を失う。 赤烏十三年(250年)、孫権は孫和を廃して故鄣に幽閉し、末子の孫亮を太子に立てた。この処置を諫めた者は十数人が誅され、あるいは放逐された。孫権は病床でこれを悔い、孫和を召し還そうとしたが、全公主や孫峻・孫弘らに阻まれて果たさなかった。 孫亮の即位後は南陽王に封じられて長沙に住んだ。だが建興二年(253年)、諸葛恪の誅殺に連座して、孫峻から死を賜る。三十歳であった。 のちに子の孫晧が帝位に即くと、父を追尊して文皇帝とした。

逸話

孫和には、失脚に値する咎がなかった。だからこそ、その転落の経緯は宮廷政治の恐ろしさをよく伝えている。 彼を追い落としたのは、姉の全公主——孫魯班である。全琮に嫁いだこの女性は、孫和の母・王夫人と不仲であった。そこから始まった敵意が、二段の讒言となって結実する。 孫権が病に臥したとき、孫和は宗廟へ祭祀に遣わされた。妃の縁者が廟の近くに住んでおり、孫和を招いた。全公主はこれを捉え、孫和は祭祀に行かず縁者の家で密議していたと孫権に告げた。続けて、もう一撃を放つ——孫和の母・王夫人は、陛下がご病気になったことを喜んでおります、と。 父の病を喜ぶ母、その子である太子。孫権は激怒した。王夫人は憂いのうちに死に、孫和は父の信を永久に失った。 廃位に際しては、多くの臣が身を投げ出して諫めた。屈晃・陳正・陳象らが上奏して思い直すよう求めたが、陳正と陳象は一族もろとも誅され、屈晃は杖で百打たれて退けられた。諫めて誅されるか追われるかした者は十数人に及び、人々はみなこれを冤罪と考えたという。 孫権自身、のちに悔いた。病床にあって思うところがあり、孫和を召し還して太子に復そうとしたのである。だが全公主、そして孫峻・孫弘らが強く反対して、それは止められた。ここで孫和が戻っていれば、孫亮の傀儡政治も、孫峻・孫綝の専横も、そして孫晧の暴政もなかったかもしれない。 最期の場面には、対照的な二人の女性が立ち会っている。建興二年(253年)、諸葛恪の誅殺に連座して孫峻の使者が死を賜ると、妃の張氏は「生きるも死ぬも、ご一緒します」と言ってみずから命を絶った。だが側室の何姫は死を選ばなかった。「みなが死んでしまえば、いったい誰がこの孤児たちを育てるのか」——そう言って生き残り、遺された子らを育て上げたのである。 その子の一人が、十一年後に帝位に即く孫晧であった。何姫の選択がなければ、呉の最後の皇帝は存在しなかった。もっとも、育てられたその子が呉を酷烈な暴政で締め上げ、父の廃位を招いた孫覇の子らを流刑に処することになるのだから、この救いはいささか苦い。 兄・孫登が臨終の上疏で「仁孝聡明にして徳行清らか」と推したその人物が、廃されて幽閉され、三十歳で死を賜る。孫和の生涯は、正しく推挙されたことすら身を守る役に立たなかった、ということを示している。

評価

孫和は、それ自体に大きな咎があったわけではないが、父・孫権が太子と魯王を等しく遇したことに端を発する党争に、否応なく巻き込まれた悲運の太子である。二宮の変は、呉の有為の人材を数多く損ない、その国力を内側から削いだ。 翻弄されたあげく廃され、ついには死を賜ったその生涯は、後継の定めを誤ることの恐ろしさを、如実に物語っている。

演義

小説『三国志演義』では、呉の後継争いの当事者として名が現れる。 弟・魯王との党争と、その果ての廃位が、呉の宮廷の乱れを示す一齣として扱われている。
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