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魏伝


李通 文達りつう ぶんたつ

姓名李通
文達
生没年168年 - 209年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号剛侯
伝評曹操の中原平定に尽力し、危機で幾度も奮った武人
主な関連人物 曹操 曹仁 満寵 
関連年表 197年 張繍討伐
200年 汝南の賊を平定
209年 江陵の戦い

略歴

李通、字を文達といい、江夏郡平春県の人である。子は李緒、李基がいる。

おとこぎをもって長江から汝水の地城で有名だった。同郡の人陳恭とともに朗陵において兵をあげた。多くの人々が彼に身を寄せた。当時、周直という者がいて、二千余家の人々を集めており、陳恭、李通と表面は仲良くしていたが内実はしっくりしなかった。

李通は周直殺害をもくろんだが、陳恭はそれをこばんだ。李通は陳恭に決断力がないことを知ったので、自分だけで計画をたて、周直と会合を開き、酒宴の最中に周直を殺した。人々は大騒動となったが、李通は陳恭をひきつれ、その一党の指揮者たちを殺害し、その営兵をすべて併合した。

のちに陳恭の妻の弟の陳コウが陳恭を殺してその軍勢をわがものとした。李通は陳コウの軍を攻撃して打ち破り、首を斬って陳恭の墓に祭った。

また、黄巾の指導者中の大物呉覇をいけどりにし、その部下を降伏させた。

大飢饉に遭遇したが、李通は家産を傾けて救済し、兵士と粗末な食物を分けあったので、みな争って彼のいいつけを聞いた。そのことから盗賊はあえて支配下を侵犯しようとしなかった。

建安の初め、李通は軍勢をあげて許にいる曹操のもとに赴いた。曹操は李通を振威中郎将に任命し、汝南の西境に駐屯させた。

曹操が張繍を討伐したとき、劉表が兵を派遣して張繍に援助したので、曹操の軍は負け戦となった。李通は兵をひきつれ、夜、曹操のもとにつき、曹操はまた戦うことができた。李通は先陣となり、張繍の軍をさんざんに打ち破った。裨将軍に任命され、建功侯にとりたてられた。

汝南郡の二県を分割し陽安郡を置き、李通を陽安の都尉とした。

李通の妻の伯父が法律を犯した。朗陵の長の趙儼は逮捕して彼を死刑に処した。この当時、殺生の権は牧守が握っていたので、李通の妻子は号泣して彼の命乞いをした。李通は、「現在、曹公と力をあわせているのだ。道義からいって、私をもって公を廃せない」趙儼が法を保持して迎合しないことに感心し、彼と親交を結んだ。

曹操は袁紹と官渡で対峙した。袁紹は使者をやって李通を征南将軍に任命し、劉表もまたひそかに彼をさそったが、李通はいずれも拒絶した。李通の親戚や配下の者は涙を流して、孤立して危険な状況の中、援助もなく、滅亡する前に袁紹に従うようにいってきた。李通は彼らをしかりつけて、曹操の忠誠を貫き、死んでも裏切らないと明言した。即座に袁紹の使者を斬った。

また、郡にいる賊、瞿恭・江宮・沈成らを攻撃し、その仲間を徹底的に打ち破り、彼らの首を曹操に送った。かくて淮水・汝水の地城は平定した。あらためて都亭侯にとりたてられ、汝南の太守に任命された。

当時、賊の張赤らが五千余家が桃山に集結していた。李通はそれを攻撃して打ち破った。

劉備は周瑜とともに曹仁を江陵に包囲し、別に関羽に命じて北道を絶ち切った。李通は軍勢をひきつれてそれを攻撃し、馬からおりてさかもぎを引き抜き、包囲軍に突入した。戦いつつ前進し、曹仁の軍を救出した。武勇は諸将第一であった。

その後、道中で李通は病気にかかり死去した。享年42歳。


評価

李通死後、曹丕は諡号を贈りながら詔勅で、「昔、袁紹の難のとき、許・蔡より南では、人々みな二心を抱いた。李通は道義を保持して右顧左眄せず、二心をもつ人たちを服従させた。朕ははなはだそれを嘉する」と称えて、李通の子らに特別の恩寵を示した。

華佗伝によると、李通の妻は双子を流産した際に重傷に陥ったが、華佗の適切な処方により助かった。


演義

小説『三国志演義』では、ほぼ名のみの登場である。最初に登場してからしばらく姿を見せず、二度目の登場シーンである潼関の戦いで馬超と一騎討ちを演じるも斬られる。