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劉備が帝位に就き蜀漢建国

後漢伝


諸葛瑾 子瑜しょかつきん しゆ

姓名諸葛瑾
子瑜
生没年174年 - 241年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評孫権に信任され蜀の和平に務め、主従の気持ちを理解した人物
主な関連人物 孫権 魯粛 呂蒙 諸葛恪 
関連年表 215年 蜀との友好使者として赴く
219年 荊州平定
222年 江陵の戦い
229年 大将軍に任命される

略歴

諸葛瑾、字を子瑜といい、琅邪郡の陽都の人である。父は諸葛珪、甥に諸葛玄、子は諸葛恪、諸葛喬、諸葛融がいる。弟は蜀の重臣である諸葛亮、諸葛均である。

若い時代に京師に出て、『毛詩』(詩経)、『尚書』(書経)、『左氏春秋』などの学問を修めた。

漢末期、戦乱を避けて江東に移住した。それはちょうど孫策が死去し、孫権が跡をついだばかりのころで、孫権の姉の婿にあたる曲阿の弘咨が彼に会ってその非凡さを高く評価し、孫権に推挙した。諸葛瑾は魯粛たちと並んで賓客として遇され、のちに孫権の長史となり、中司馬に転じた。

215年、孫権は諸葛瑾を使者として蜀におくり、劉備と好を通じさせた。弟の諸葛亮と公式の席で顔を合わすことはあったが、公の場を退いたあと、私的に面会することはなかった。

呉郡太守の朱治は、かつて孫権をその郡から孝廉に推挙したことがあったのであるが、孫権は朱治に対してあるとき心に強い不満を持ったことがあった。諸葛瑾は、こうした事情を察知したが、正面からあからさまに取り挙げることはせず、自問自答したいと申し出て、手紙を書くと、ひろく道理を推量して朱治を責め、今度は自分が遠くにいる朱治になりかわって理由を推量して弁解の手紙を書いた。孫権は喜び笑って、「顔回の徳は人々の間に親密な関係をもたらしたとのことだが、あなたが今そうであろう」といった。

孫権は、また別のときに、校尉の殷模を譴責(けんせき)し、死刑にも処してしまおうとしたことがあった。群臣たちが多くこれを諌めたが、孫権は腹立ちをつのらせるばかりであった。諸葛瑾一人は黙ったままであった。孫権は、「子瑜殿は、なぜ一人だけものを申さなぬのか」と訊ねた。諸葛瑾は、殷模の郷里が壊滅したことを、みずからの立場と照らし合わせて苦労した心中を語り、拝命した数々のご恩を感謝し、こうしたところで殷模を正しく導いてやれなかったことで、申し上げる言葉もないと語った。孫権は、この言葉を聞くと、心中悲しみに打たれて、「特にあなたに免じて彼を許そう」といった。

のちに関羽討伐に参加して、宣城侯に封じられ、呂蒙に代わって南郡太守をつとめ、公安に家を置いた。

劉備が東に軍を動かし呉の討伐に向かってくると、孫権は、むしろ蜀との講和を望んだ。諸葛瑾は、劉備に書信を寄せて、劉備の報復に対する気持ちを推察し、利害を説いて、また孫権が和平をしたいことを上申した。この当時、諸葛瑾が蜀への公式使者とは別に、親しい者を遣わして劉備と内通しているという者もあったが、孫権は、「諸葛瑾は生死を越えて心をかえぬ誓いを結んでいるから、裏切ることはない」といった。

222年、諸葛瑾は左将軍に昇進し、公安の督となり、仮節をたまわって、宛陵侯に封じられた。

曹真や夏侯尚らが朱然を江陵で包囲し、さらに大江の中洲にも別軍をさしむけて陣地をかまえさせたので、諸葛瑾は大軍を率いて朱然の救援にむかった。やがて春の出水のころとなり、潘璋らが上流に水上城郭を作り、諸葛瑾が浮き橋に攻撃をかけると、曹真らは軍を引いて逃げた。

孫権が皇帝を称するようになると、諸葛瑾は、大将軍・左都護に任ぜられ、豫州の牧の職務に当たった。

241年に死去した。享年68歳。


評価

孫権の性格を良くつかんでおり、戒める時も直接言う事はなく諭すような感じでとりなした。風格は堂々としていたが思慮深い上に人当たりは良く、そのため周囲の評判は良かった。そのため孫権は「瑾、瑾」と彼を特に重用していた。

諸葛瑾が孫権と語り合ったりするときには、けっして強い言葉を用いたりすることなく、思うところをわずかに態度に表わし、主張のおおよそを述べるだけで、もしすぐには孫権に受け入れられぬようであれば、そのままにして他の話を移し、やがてまた他のことに託して意見を述べ、物にたとえて同意を求めた。このようにしたため、孫権の気持ちも往々にして変わったのであった。

一方で、鷹揚せまらぬ性格から、ものごとの道すじを考え、計画を充分に立てたうえで行動を移し、臨機応変の戦術を取らなかったため、兵役は中々らちがあかず、孫権は、こうしたことから諸葛瑾に不満を持った。


逸話

諸葛瑾は威厳のある堂々とした風貌を備えていたという。一方、劉宋の小説『世説新語』には、諸葛瑾の顔は面長で驢馬に似ていたため、あるとき、孫権は大勢の前で驢馬の額に「諸葛子瑜」と書いてからかったという話が記載されている。このとき諸葛瑾は黙していたが、幼少の息子・恪がそこに「之驢」と書き加え父親の面子を守った。孫権と一座の者は、その機転の良さに舌を巻き、孫権は本当にその驢馬を諸葛瑾に与えた。しかし諸葛瑾は息子のそうした才気煥発さが、やがては一族を滅ぼす原因となると懸念した。後年、諸葛恪の刑死でそれは現実のものとなった。

諸葛亮の兄ということで両国が不仲になっていた時期に内通を疑われるが、孫権の信頼は絶大で、「諸葛瑾が裏切らないのは、私が諸葛瑾を裏切らないのと同じだ」とまで言わしめている。また、諸葛亮を仕えさせるよう言われると「私が我が国を裏切らないように、弟もまた劉備を裏切らないでしょう」と言い、蜀に赴いた時に逆に仕えてはどうか、と言われると諸葛亮が同じ意味の台詞を述べている。