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孫権が病死する

後漢伝


歩隲 子山ほしつ しざん

姓名歩隲
子山
生没年? - 247年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評孫権に寵愛された一人で、軍人としても活躍
主な関連人物 孫権 諸葛瑾 
関連年表 211年 征南中郎将となる
220年 異民族の討伐
229年 西陵都督となる
246年 丞相となる

略歴

歩隲、字を子山といい、臨淮郡の淮陰の人である。先祖は漢建国に貢献した歩叔である。子は歩協、歩ガイがいる。

世の中が乱れたので、難を避けるため江夏に移住した。たよるべき人もなく困窮して、広陵の衛旌が同じ年で仲が良かったことから、二人して瓜を植えて生活費を稼ぎ、昼は肉体動労に精を出し、夜は経書やその解釈をして勉強をした。

会稽郡の焦征羌は、郡の豪族であって、その食客たちがわがもの顔に横行していた。歩隲と衛旌とは、焦征羌の勢力の下にある土地で生計をはかろうと考えたが、その一味に無茶なことをされるのを恐れて、二人して名刺を通じ瓜を奉じて、焦征羌に献上したいと願い出た。焦征羌は奥で横になっていて、二人を長く待たせたままにしておいた。衛旌は無礼を受けるより帰ろうとしたが、歩隲は、彼の勢力を利用すべく、また怨みを買われないためにも、帰るべきじゃないと説得した。

長い時間がたってから、焦征羌は窓を開いて二人と会い、窓の外の地べたに座らせた。焦征羌は、大きな机にご馳走を並べ、歩隲と衛旌とには、小さなお盆に盛ったご飯を与え、野菜のおかずが付いているだけであった。歩隲はそれを余すことなく食べた。衛旌は腹を立てて、「こんな扱いにどうして堪えられるのだ」歩隲がいった、「我々は貧乏で身分もない。だから主人は貧乏で身分のない者として我々を待遇したのだ。当然のことであって、何の恥ずかしがることがあろうか」

孫権が討虜将軍となると、歩隲を召し寄せてその幕僚の主記に任じ、のちに海塩県の長に当らせ、ふたたびかえして車騎将軍府の東曹縁とした。

孫権が徐州の牧となると、歩隲は治中従事に任じ、茂才に推挙した。

210年、幕府を出てハ陽太守の任務についたが、その歳のうちに交州刺史にうつり、立武中郎将として、武装し弓矢を帯びた役人たち千人をあずかって、近道して南方の任地に向かった。

翌年、使持節・征南中郎将の称号をその任地で加えられた。

劉表が任命した蒼梧太守の呉巨は、ひそかに異心を抱き、表面的に呉の支配を受け入れていたが、内心はそれを承服してはいなかった。歩隲は、鄭重な礼を取って懐柔し、会見をしたいといって誘い、その席で呉巨を斬ってさらしものとした。このことから、歩隲の威勢はあたりを大いに震わせた。

士燮兄弟たちも、それぞれに歩隲の命令を奉ずるようになり、南方の地域が呉と好を結ぶようになったのは、このときからなのである。

益州の豪族の雍ガイらは、蜀が任命した太守の正昂を殺すと、呉に付きたいと申し入れてきた。歩隲は、中央からの命令をまって使者を送り、呉王からの特別のはからいで雍ガイらを受け入れた。この功績で、歩隲は平戎将軍を加官され、広信侯に封じられた。

220年、孫権が呂岱を派遣して歩隲にかわって交州刺史の任につかせると、歩隲は彼と行を共にしたいと願う交州の者たち一万人をつれて、長沙へ出た。ちょうどそのころ劉備が東方へ軍を進めてきており、武陵の異民族たちも不穏な動きを示していた。歩隲は益陽へ向かい、劉備が大敗しても、諸県で服従せぬ勢力があった。歩隲は各地を転戦してそうした勢力を討伐し、のこらず平定した。

223年、右将軍左護軍に昇進した。同五年には、仮節を授かり、長沙郡へ移ってそこに駐屯した。

孫権が皇帝を称すると、歩隲は驃騎将軍を授かり、冀州の牧の任務に当たった。のちにすぐに、西陵の都督に任ぜられ、陸遜に代わって二国の地帯の宣撫にあたった。

やがて呉と蜀とが盟約を結び、冀州が蜀の勢力範囲に属するということになって、冀州の牧の職は解かれた。

中書の呂壱が公文書監査を行うようになると、盛んだ摘発を行なった。歩隲が上疏して、孫権を説得して呂壱を処刑させた。

246年、歩隲は陸遜のあとをついで丞相となったが、翌年に死去した。享年不明。


評価

『呉書』によると、「歩隲は広く哲学や諸芸をきわめて、深く通達しておらぬ方面はなかった。性格は鷹揚で沈着であって、謙虚に人を受け入れることができた」と評価している。

また、歩隲が病気で官を免ぜられると、諸葛瑾や厳シュンとともに呉郡に出てきた。彼ら三人は、それぞれに隠れなき名声をもって、一代の英俊だとされた。

裴松之は、歩隲は人を受け入れる器量と模範となる行動とによって、当時の世の中で有能な人物だとみなされる、と語っている。


演義

小説『三国志演義』では、孫権が招いた家臣の一人として名前が挙がり、赤壁の戦いの際の降伏派の家臣の一人として登場するが、諸葛亮に論破され罵倒されている(なお、『三国志』では赤壁の戦いに関する記載は一切見られない)。

また、夷陵の戦いの際には陸遜の才能を過小評価しその登用に反対するなど、物語の都合上や損な役回りを担わされている。