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姓名 | 王允 |
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字 | 子師 |
生没年 | 137年 - 192年 |
所属 | 後漢 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 漢室を守るため、離間の計を用いて董卓を誅殺した政治家 |
主な関連人物 | 呂布 董卓 |
関連年表 |
184年 黄巾の乱討伐 189年 守尚書令となる 190年 司徒となる 192年 董卓を暗殺する |
王允、字を子師といい、太原郡祁県の人である。
若いころから高い節義を持ち、当時の名士郭林宗に王佐の才ありと認められていた。三公から属官として召しだされ、侍御史に任じられた。
184年、黄巾の乱がおこると、選ばれて豫州刺史となり、黄巾の別将を討ち、皇甫嵩・朱儁らとともに数千万人を降伏させた。
この時、王允は中常侍張譲が黄巾と通じて賓客に書かせた書状が露見し、これを霊帝に上訴した。しかし霊帝は叩頭して陳謝する張譲をみて、罪にあてようとしなかった。王允は張譲に深く怨まれ、二度も投獄された。辱めをうけるよりは、毒をあおって死ぬべきだと、涙を流して勧める人もいたが、王允は「死刑を伏して天下に謝するべきであって、どうして毒をもって自ら死を求めようか」と言い、檻車に乗り込んだ。
大将軍何進・大尉袁瑰・司徒楊賜らが揃って助命を請うたので、収監された二年にやっと解放された。王允は姓名を変えて河内、陳留の二郡の間を転々とし、宦官からの追求を避けた。
189年、霊帝崩御し、何進の宦官誅戮計画にも参加した。この計画は失敗して、洛陽に入った董卓は少帝を廃して陳留王劉協を立てた。王允は、守尚書令となった。
190年、楊彪に代わって司徒に昇進した。
董卓は軍事的に李傕・郭汜・樊稠・牛輔ら涼州出身者で固めたが、政治に関しては陳留郡の蔡邕・琢県の盧植・潁川郡の荀爽・会稽郡の朱儁ら、出身地を問わず当代の名士を用いた。いかな董卓とて、彼らの社会的名声を無視できなかった。王允の登用もその一例であった。
同年1月、関東の諸侯の董卓討伐の挙兵があった。董卓は献帝を長安に遷都させ、王允に大小の別なく朝政の事を委ね、自分は洛陽にとどまった。董卓は自ら相国となって思うままにふるまった。王允は漢室を守るため、董卓を排除しなければならないと苦慮した。
王允は同州の呂布の力を借りようと思いつけた。呂布が董卓の婢女と密通しており、それを知られないか不安を感じていることや、些細なことを咎められて、董卓から手戟を投げつけられた事件を聞き出した。
彼らの仲が必ずしもしっくりしてないと知って、王允は董卓殺害の計画を打ち明けた。しかし、呂布は董卓と父子の関係だからと躊躇したが、王允は、「君の姓は、もともと骨肉の間柄ではない。死を憂て暇がないというのに、何で父子と言えようか」といった。呂布は心を決めた。
192年4月23日、献帝の快気祝いが行われた日、参内した董卓は、呂布とともにした李粛に戟を一撃見舞われて馬車から転落、呂布に助けを求めた。呂布は、「賊を討てとの詔がでている」と矛で突きし、部下に命じて斬殺させた。
董卓誅殺の成功の知らせが王允に届いた。同席していた蔡邕は、董卓の死をきいて「ああ、死んでしまったか」と言った。董卓を惜しむ響きがあったと思えないが、董卓に敬慕され、尚書に取り立てられていたのが禍いした。王允は、「大逆臣をそのままにしておいて、いざ天誅が下されるとそれを嘆くのか」といって、蔡邕を逮捕した。蔡邕は班固の漢書を著述している最中だったので、死を免じてほしいと頼んだが許されず、処刑された。
諸県を攻略中に董卓の死を知った李傕・郭汜は、客将賈詡の献策にしたがって兵を整えて長安に向かい、これも董卓の部下だった樊稠・李蒙・王方たちと合流し、十万の兵を率いて長安を攻撃し、僅か十日で陥落させた。猛攻を防ぎきれず、呂布は袁術を頼って落ち延びた。
入城した李傕・郭汜らは周奐・崔烈らを殺害し、多くの市民を殺害した。王允は太子を抱いて官平門に登って避難した。李傕らはこれは謀反ではなく、罪なく殺された董卓の復讐のためだと訴えた。進退きわまった王允は門を下り、妻子一族十人余りとともに殺害された。
大尉の馬日磾は、蔡邕が処刑されたことで、「王公は長生きできぬだろう。よき人は国家の基であり、史書の制作は国家の典だ。これは廃して、久しいことはあるまい」と嘆いた。その後、予想は的中した。
元来、王允は剛情で悪を憎み、董卓の死後は人と接するときは常に無愛想だった。その態度を改めなかったので、配下の者はあまり心を寄せなくなった。
呂布に対しても王允は一介の剣客としてしか遇さず、董卓の部下を赦すように勧めても、聞く耳を持たなかった。それでも呂布は脱出するとき、行を共にするよう声をかけている。
小説『三国志演義』では、養女の貂蝉という美女を使って(美人計)董卓と呂布を仲違いさせたことになっている(離間計)。この策を「連環の計」と呼ぶ。この話は上述の、呂布が董卓の侍女と密通していたという話から創られたと考えられる。