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曹操と劉備の英雄論

後漢伝


劉虞 伯安りゅうぐ はくあん

姓名劉虞
伯安
生没年? - 193年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評袁紹によって皇帝に擁立させられようとしたが拒絶した皇族
主な関連人物 袁紹 公孫瓚 韓馥 
関連年表 184年 甘陵国の相となる
188年 幽州の牧・襄賁侯・大司馬となる

略歴

劉虞、字を伯安といい、徐州東海郡郯県の人である。子は劉和がいる。

184年、黄巾の乱が起こると、甘陵国の相に任命された。荒廃の傷跡深い民を慰撫し、節倹を旨に指導した。後に、中央に召し出され、尚書令・光禄勲を経て宗正に転任した。

187年、鳥丸と連合して幽州で叛乱を起こした張挙・張純を討ち、これを平定した。そして流亡の民を慰撫し、民生を図ったので、戦乱の中で幽州のみはよく治まり、中原の百万人余りの難民もここに移住した。

188年、朝廷で宗正の任に就き、幽州の牧に任命された。

189年8月、董卓は洛陽に入り、翌月、少帝劉弁を廃して陳留王劉協を帝位に即けた。そして劉弁の母何太后を毒殺、自ら相国となって朝政を自分の好き勝手に行った。曹操・袁紹らはこれを見てそれぞれ郷里に帰り、翌190年正月、関東の諸侯と語らって董卓討伐の義兵を挙げた。

董卓は洛陽に火を放ち、献帝を長安に還し、司徒王允に朝政を委ねる一方、自分は洛陽で諸侯の軍は袁紹以下、董卓の兵の強さを恐れてあえて進もうとせず、果敢に戦ったのは曹操・孫堅二人に過ぎなかった。

洛陽を遠巻きにしている間、諸将は互いに猜疑しあうようになり、兗州刺史劉岱は突然東郡太守橋瑁を殺して兗州に還り、これを契機に諸軍はばらばらになった。曹操は黄河を渡って袁紹とともに河内に駐屯した。

義軍の盟主袁紹は、衆心が一致せずそれぞれ何事かを謀っている様子を見、また董卓の勢力を一挙に粉砕し難いとおもって一計を案じた。それは別個に天子を立て、董卓の傀儡に過ぎない献帝に対抗させようというものだった。彼は冀州の牧韓馥と相談して、当時最も人望が高かった幽州の牧の劉虞を立てることにした。

しかし、袁紹の一族袁術は自分が帝位を担っていたので猛反対し、曹操は「諸君は北面して天子に仕えればいい、私は西に向かって献帝に仕えるのみ」と異議を唱えた。

191年正月、袁紹は構わずか韓馥と連名で即位を慫慂する書を作り、故楽浪太守張岐を使者に立てて劉虞に謁見させた。劉虞は書簡をみて、「諸君と協力してどう国の厚恩に報いたらいいかを考えている私に、このような逆謀に加担させよち言うのか」と大いに怒り、張岐を追い返した。袁紹・韓馥らは擁立を断念した。

劉虞はこのような野心家がまた現れるのではないかと考え、自分の漢朝に対して抱いている真情を長安の献帝に伝えようとした。しかし西方は混乱して道も遠かった。ある人が右北平の人、田疇を推薦した。期待に応えて田疇は使者の大任を果たして帰国した。

奮武将軍公孫瓚は右北平に駐屯して、しばしば烏丸や鮮卑を破り、常に白馬に乗って戦ったことから、「白馬長史」と呼ばれて彼らに恐れられていた。しかし彼の駐屯地は幽州の牧劉虞の管轄下に在り、思うように行動出来ないのを常に恨んでいた。

192年、公孫瓚は南下して袁紹を攻撃、初めは優勢だったが劉虞の制肘があって軍糧が不足、大敗して幽州に戻った。劉虞は鳥丸・鮮卑に対して宥和策ををもって臨んだ。こうしたことから次第に両者の関係は抜差しならないものになり、互いに上表して相手の非を訴えた。先に手を出したのは、公孫瓚が乱を起こすのを恐れた劉虞のほうだった。

戦い馴れた公孫瓚に挑戦しても、所詮は彼の敵ではなく、劉虞は一戦で敗れて居庸に逃走したが、郯城はおとされ、公孫瓚に生け捕られて連行された。公孫瓚は劉虞が皇帝を名乗ろうとしていると誣告し、ついに殺害した。


評価

東海恭王劉彊五世の孫で宗室の中で最も徳望があった。

劉虞は日頃から寛厚な態度で人に接し、深く民心を得ているので、彼の死を知ると涙を流さないものはいなかった。

劉虞は倹約、質素を旨とし、州牧でありながら、冠がすり切れて穴があけば、これを繕い用いていた。彼が殺された後、公孫瓚の兵が邸内に踏み込んでみると、妻姜たちは贅沢な衣服と、きらびやかな装飾具で飾り立てていた。当時の人はこれを知って、劉虞の心馳せを疑った。

劉虞の従事だった鮮于輔・斉周・騎都尉鮮干銀らは、当時幽州人望が厚かった燕国の閻柔を鳥丸・鮮卑に誘いをかけて、異民族・漢人併せて数万の兵で公孫瓚を攻撃した。袁紹を劉虞の子劉和に兵を与え、麴義とともに公孫瓚を討たせた。


演義

『三国志演義』では、劉虞は劉備を徒尉に任じて、ともに張挙・張純の叛乱を鎮圧し、劉備の大功を上表して、かつて安喜県で督郵を鞭打った罪が赦されるように取り計らった。

袁紹らによる擁立計画や、公孫瓚との確執には触れていない。