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姓名 | 閻行 |
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字 | 彦明 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 馬超と一騎打ちで勝利し、あと一息で殺すまで追い詰めた勇将 |
主な関連人物 | 曹操 韓遂 |
関連年表 |
214年 列侯となる |
閻行、字を彦明といい、涼州金城の人である。
184年、黄巾の大乱の渦中、西方を荒らしまわった韓遂の若手将校として活躍、武勇を謳われた。
韓遂が隴西郡を襲ったとき、馬騰は彼に味方し、以後、二人は異姓兄弟の約を結んで親しくなった。しかし、後に利害を廻って対立し、196年には戦闘状態になった。馬騰の長子馬超の武勇の名は、この間に涼州一帯に鳴り響いた。
ある合戦のとき、閻行と馬超の一騎打ちとなった。閻行は臆せずに戦って、ついに馬超を刺したが、矛が折れてしまった。彼は折れた矛で馬超の項を殴りつけた。もし矛が折れていなければ、馬超は死んでいた。勇名を轟かせた馬超の生涯最大の危機だった。
197年、司隷校尉鍾繇・涼州の牧韋端は韓遂・馬騰を和解させた。
208年、馬騰は入朝して衛尉となり、天子の宿衛の任に当たった。韓遂は金城にいたが、閻行に命じて鄴に行かせた。赤壁で大敗した曹操が、どのくらい打撃を受けたか、探るつもりだった。
曹操は手厚くもてなし、上表して閻行を犍為太守とした。閻行はこの機会に、父を宮中警護の役に加えてほしいと頼んだ。これは曹操に到底太刀打ち出来ないことを、その眼で見たからだった。曹操は閻行に「文約が西辺を荒らしたのは、自分の意思ではなく、時の情勢に迫られた結果だと私は知っている」と語り、「自分に協力するよう伝えよ」と命じた。
閻行は鄴から戻ると、韓遂に「私もまた将軍となって三十余年になりますが、民も兵も疲弊し、領土もまた狭くなってしまいました。自ら進んで帰服したほうが宜しいと思います。私は老父を京師に行かせると決めました。将軍もお子様一人を送り、誠意を示されるべきです」と進言した。韓遂は数年は様子を見ようと答えたが、後に閻行の父母と一緒に、我が子を鄴に送った。
209年、韓遂は武威太守張猛の討伐に向かい、閻行に留守を預けた。当時、馬超は父の部曲を統率して、韓遂を都督に迎え、関中の諸将とともに挙兵しようと計画を進めていた。韓遂が帰還すると、馬超は「先に鍾司隷校尉は超に将軍を捕らえさせようとしました。関東の人間はもう信用できません。超は今、都にいる父を棄てて将軍を父に致します。将軍もまたお子さんを棄てて超を子となさって下さい」と言った。閻行はこれを諌めたが韓遂は同意した。
211年、ついに華陰まで兵を進めた。この時、曹操は韓遂と馬を交わして親しく語ったが、閻行が後に控えていた。曹操はこれを眺めやって「孝子となることを考えよ」と言った。「反抗するなら父を斬るぞ」という脅しであった。「殺す」とあからさまに言わないところが、かえって不気味だった。
同年9月、韓遂・馬超は大敗して涼州に逃げ帰った。帰還した曹操は、馬騰と都にいたその子たちや韓遂の子を皆殺しにした。ただ、閻行が進んで入質を申し出た点を考慮して、彼の両親は助命した。
曹操は自分で書いた手紙を閻行に送り、「文約はいくらい言い聞かせてやっても駄目だった。卿の父は諫議の職に在って、平穏に暮らしている。だが、牢獄の中には親を養う場所ではないし、役所としても長い間、人の親を養ってはゆけない」と伝えた。「早く味方しないと投獄して処刑するぞ」という、これも脅しだった。
韓遂は閻行の父の健在を聞き、「曹操に閻行を疑うように仕向ければ父を殺すだろう。父を殺されたなら、閻行は必ず自分と心を一つにする」と考えた。そこで彼に無理強いして末の女を娶らせた。案の定、これに引っ掛かって曹操は閻行に疑いを持った。
韓遂は閻行に西平郡を統治させた。この機会に、閻行は部曲を率い、韓遂を夜襲した。三十余年の交誼よりも閻行は親の命を救うほうを選んだ。婿に背かれた韓遂は落胆はしたが、なんとかこれを撃退した。
閻行は投降して曹操に身を寄せ、曹操は上奏して列侯に封じた。
『魏書』張既伝に引く『魏略』の記事に基づいており、「馬超よりも強かった男」の名はあまり伝わっていない。
蜀将として、関羽・張飛・趙雲・黄忠と並んで重きをなした馬超をもう一息で殺すところまで追い詰めた勇将であるが、『三国志演義』は馬超のイメージを損なうことを恐れたのか、これに触れていない。