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姓名 | 李孚 |
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字 | 子憲 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 曹操に認められ、見事に一泡吹かせた老いてますます大胆な策士 |
主な関連人物 | 曹操 |
関連年表 |
不明 |
李孚、字を子憲といい、冀州鉅鹿郡の人である。
官吏となって袁紹の三男袁尚の主簿となった。
202年、官渡・倉亭で曹操に連敗して袁紹は、失意のうちに死んだ。彼は袁尚の美貌を愛し、後継者にしたいと考えていたが、生前にその意志を公表していなかったため、袁尚は長兄袁譚と跡目を争って不仲となった。
203年、袁尚と袁譚は互いに攻撃しあうようになると、袁譚は曹操に救援を求めてきた。この好機を曹操は見逃すはずなく、袁尚が袁譚を討とうと平原に兵を進める間に、曹操は袁尚の本拠の鄴城を包囲した。袁尚は鄴の手薄を懸念して、留守を預かる審配と連絡をつけようとした。
誰をその使者に立てるか、袁尚は李孚に相談すると、「つまらぬ者を使者に立てたら、内外の事情も知らせられぬ上、行き着くこともできないでしょう。私が参ります。」敵に気付かれぬよう、温和で信頼できる者を選んで三騎のみ連れて、目的地を教えないまま出発した。
途中、三人の部下に問事が使う杖を用意させて馬腹につけた。やがて鄴の城外に着くと、禁令を犯した者が大勢いたので、李孚らは怪しまれずに近づけた。
そして李孚は曹操軍の都督になりすまして北側から包囲陣に入り込み、表札を頼って東に進み、さらに南へ向かった。問事の杖を携えた李孚は、一歩ごとに包囲の将兵たちの怠慢を指摘して叱責し、罪の軽量に応じて処罰した。
李孚は堂々と曹操の本営の前を通り抜け、南の包囲陣の角から西へ折れた。鄴城の門の一つ、章門の正面であった。李孚は曹操軍の守備兵を叱って捕縛、陣門を開かせた。李孚らは一気に章門まで突っ走り、城内の者に呼びかけて縄梯子を下ろさせ、無事城内に入った。
曹操軍の将兵らが気づいてありのままを曹操に報告すると、「こいつはただ入り込んだだけではない。しばらくすると出てくるぞ」と笑い、咎めなかった。
袁尚が駆けつけてくることを審配に告げて、李孚は袁尚のところに戻ろうとしたが、包囲網は厳重で突破できそうになかった。そこで審配に「今、城中には穀物が少なく、それを老人子供のために消費するのは無駄です。彼らを追い出して穀物を節約しましょう」と提案した。審配も同意して早速数千人の老弱全員に白旗と松明を与え、夜を待って城外にだして降伏させた。李孚と三人の部下は混乱に乗じて脱出した。
包囲していた兵士たちは城内の者全員が降伏すると聞いた上、火炎の灯りに気を取られ警戒が疎かになった。李孚らは北門から出て、そのまま西北の角から囲みを突破した。
翌朝、それを聞いた曹操は手を打って「私が思ったとおりだった」と笑った。あまりの手際の良さに、さすがの曹操も怒るに怒れなかった。
のちに袁尚はけっきょく鄴を救えぬままに敗走した。袁譚は曹操とともに敗走する袁尚を追った。李孚は袁尚と離れてしまい、袁譚に降って平原に住むことになった。
205年、袁譚と曹操はやがて争うようになり、袁譚は討たれた。平原の城内は袁譚の死を知り混乱したが、李孚は曹操のもとに出頭し、その命令を受けて人々を宣撫したため、やがておさまった。これによって李孚は曹操に認められた。
のちに昇進して司隷校尉になった。
陽平太守の任官中に死去した。享年不明。
すでに七十を越えていたころ、李孚の決断力は少しも衰えることなく、策略も若いころに比べて引けをとらなかった。
興平年間、鉅鹿の人々は飢えに苦しんでいた。李孚は韮を栽培して成熟したら食べるつもりでいた。人々が分けてほしいと言ってきても与えない代わり、自分も食べなかった。成熟してから食べようといったん決めたら、頑なにそれを守った。これを見て世間の人は、一本気な男だと評した。
元の姓は馮氏であった。