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姓名 | 曹彰 |
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字 | 子文 |
生没年 | ? - 223年8月1日 |
所属 | 魏 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 任城威王 |
伝評 | 曹操の四男で、腕力と武芸に優れて蛮族を平定した人物 |
主な関連人物 | 曹操 曹丕 曹植 田豫 |
関連年表 |
216年 鄢陵侯 218年 北中郎将・驍騎将軍となる 219年 越騎将軍となる 222年 任城王となる |
曹彰、字を子文といい、沛国譙県の人である。父は曹操、同母兄は曹丕、同母弟は曹植・曹熊、子は曹楷らがいる。
たびたび征伐のおともをし、激しい気性を示した。
曹操はあるとき彼の気性を抑えるためにいった、「おまえは書物を読んで聖人の道を慕うことを考えないで、汗した馬に乗り剣術をするのを好んでいるが、それは匹夫のはたらきであって、どうして尊重するほどのことがあろう。」曹彰に『詩経』と『尚書』を読むことを課した。曹彰は側近に向かっていった、「男子はひたすら衛青・霍去病となって十万の騎兵をひきつれ、砂漠を馳せ廻り、蛮族を追いたて、功績をあげ称号をうちたてるべきじゃ。どうして博士になんかなれよう。」曹操はあるとき子供たちに好きなことを訊ね、各自その希望を述べさせた。曹彰はいった、「将となるのが望みです。」曹操、「将となってどうするのじゃ。」答えて、「よろいを着、武器を手に、危険を前にしてひるまず、士卒の先頭をきります。恩賞は必ず行われ、刑罰は必ず信義にもとづきます。」曹操は大笑いした。216年、鄢陵侯にとりたてられた。
218年、代郡の烏丸族が反乱を起こしたとき、曹彰を北中郎将とし、驍騎将軍を代行させた。
出発に臨んで、曹操は曹彰をいましめた、「家にいる場合は父と子であったが、事を担当すれば君と臣である。つねに王法によって事を行なえ。なんじ、そのことを心せよ。」
曹彰は北征し、涿郡の境界に入ると、反逆の蛮族数千騎が突然やってきた。そのとき兵馬はまだ集結せず、ただ歩兵数千、騎馬数百匹がいるだけだった。田豫の計略を用い、固守して敵の隙をうかがったので、敵は退却しちりぢりとなった。曹彰はそれを追いかけ、自身戦闘に加わり、蛮騎を射たが、弦の日々気に応じて倒れる者が、前後してつづいた。戦闘は半日をこえ、曹彰のよろいには数本の矢が当たったが、意気はいよいよ激しく、勝利に乗じて逃げる敵を追い、桑乾は代から二百余里の距離にある。長史や諸将は皆、遠距離を進郡してきたため、兵も馬も疲れきっている、それに師事を受けていて代をこえるわけにはいかない、奥深く入りこみ、命令に違反し敵を軽視すべきでない、と主張した。曹彰はいった、「軍をひきいて進む場合、ただ勝利に専心するべきなのに、何の指示だ。蛮軍はまだ遠くまで逃げていない。やつらを追えば必ずうち破れる。命令に従って敵をそのままにするのは、良将ではない。」
かくて馬に乗り、軍中に命令した、「出発におくれる者は斬る。」一日一夜追いかけて敵に追いつくと攻撃し、さんざんにこれをうち破り、首を斬り生けどりにした敵は四けたの数にのぼった。曹彰は通常の規定の倍に当たる恩賞を将兵に与えたから、喜ばない将兵はなかった。
当時鮮卑族の有力者軻比能が数万の騎兵をひきつれ、形勢をうかがっていたが、曹彰が力戦して敵対する相手をすべてうち破ったのを見たので、服従を願い出、北方はすべて平定された。そのとき曹操は長安にいたが、曹彰を行在所まで召し寄せた。曹彰が代から鄴を通るとき、曹丕は曹彰に向かっていった、「卿は新たに功績をあげ、今、西へ行ってお上にお目どおりするのだが、自慢せず、受け答えはつねにひかえめにするがよいぞ。」曹彰は到着すると、曹丕の言葉どおりにふるまい、戦功を諸将のものとした。曹操は喜び、曹彰の鬚を手にとり、いった、「黄鬚よ。まったくりっぱになりおったわい。」
『魏略』にいう。曹操が漢中にいたのに対して、劉備は山頂にたてこもり、劉封に山を下りて、戦いを挑ませた。曹操は罵倒した、「くつ屋のこせがれのくせに成長するとにせの子を使っておれさまに抵抗させるとは。わが黄鬚を呼んできて攻撃してやるから待っておれ。」そこで曹彰を召し寄せた。曹彰は朝も夜も道を進み、西方の長安へ到着したが、曹操はすでに帰還していたため、漢中を通って帰った。曹彰の鬚が黄色だったので、そう呼んだのである。
曹操は東に帰るとき、曹彰に越騎将軍を代行させ、長安に留め置いた。曹操は洛陽に着くと病気にかかり、早馬で曹彰を召し寄せたが、まだ到着しないうちに、曹操は崩御した。
曹丕が王位につくと、曹彰は諸侯とともに領国に行った。詔勅にいう、「先王の道は勲功ある者を用い、親しき者に親しみ、あわせて同じ母から生まれたはらからをとりたて、国を開かせ家をうけつがせる。だからよく本家を守護し、あなどりをふせぎ危難をしずめるのである。彰は先に命令を受けて北方を討伐し、北土を清め平定し、その功績はりっぱである。五千戸を加増し、前とあわせて一万戸とする。」
221年、爵位を進められて公爵となった。
222年、任城王に立てられた。
223年、首都に参内し、病気にかかり公邸で逝去した。葬儀になると、前漢の東平王の例にならって鑾輅・龍旗・虎賁百人を下賜された。
若いころから弓射と馭車が上手で、筋力は人なみ以上、みずから猛獣と格闘し、険阻なところも平気であった。
『魏略』にいう。曹彰は到着すると、臨菑侯曹植に向かっていった、「先王がわたしを召されたのは、おまえを立てられるおつもりだったのだ。」曹植はいった、「いけない袁氏の兄弟を見られなかったのですか。」
曹丕があとを継いで立ち、葬儀が終わると、曹彰を領国に行かせた。最初曹彰は自分が先王に任命されて功績をあげたことから、これをきっかけに任務を授けられ起用されることを期待したが、さだめに従うべきだと聞き、心中はなはだ不機嫌で、使者を待たずに出発した。当時鄢陵はやせはてた土地であったので中牟を治めさせた。帝が漢の禅譲を受けると、そのまま中牟王にとりたてた。こののちみくるまが許昌にみゆきすると、北州の諸侯は爵位の上下にかかわらず、みな曹彰の剛殺厳格をおそれ、必ず速度をあげて、中牟を通過した。
『魏氏春秋』にいう。そのむかし、曹彰は王は印璽と綬のありかを質問し、今にも反逆するばかりの様子だった。だから来朝のおり、すぐにはめどおりできなかったのである。曹彰は忿怒のあまり突然なくなった。