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蜀漢滅亡

魏伝


曹丕 子桓そうひ しかん

姓名曹丕
子桓
生没年187年 - 226年6月29日
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号文皇帝
伝評曹操の嫡子で魏の初代皇帝になった明君
主な関連人物 曹操 曹叡 曹洪 曹植 甄氏 
関連年表 211年 五官中郎将・副丞相となる
220年 魏を建国し皇帝となる
223年 三路より呉討伐軍を起こす
225年 寿春の戦い

略歴

187年の冬、曹操と卞氏の間にショウ[言焦]で生まれた。211年、五官中郎将・副丞相となった。217年、魏の太子に立てられた。220年、曹操が崩御すると位を継いで丞相・魏王となった。賈クを大尉、華キンを相国、王朗を御史大夫に任命した。更に献帝に禅譲を迫って皇帝となり魏を建国、漢は滅亡した。

221年、孫権が使者を派遣して奏上したので、これに対し大将軍に任命した。これにより捕虜となっていた于禁が帰国した。223年、孫権が反逆したので討伐軍を起こした。しかし、疫病の流行で撤退した。225年、再び孫権討伐軍を起こし寿春を攻略したが徐盛に阻まれ、寒さで川が凍りついたため撤退した。

226年、曹真、陳羣、曹休、司馬懿に遺詔を残して崩御した。享年40歳。


評価

漢から簒奪を行った事と、蜀漢正統論の影響からか、曹丕の評判は非常に悪い。甄氏に死を賜った事や、曹植を冷遇した事が有名である。それ以外にも、曹丕が太子になってうかれ辛憲英から呆れられたことから始まり、于禁を憤死させた際の顛末や、夏侯尚への制裁、功臣であり親戚でもある曹洪を、過去に借財を頼んで断られた恨みから、皇帝即位後に彼を他の罪を口実に殺そうとするなど、陰険な逸話が数多く残っている。

彼が神経質で冷酷な性格であったことは否めないが、為政者としてみた場合、非凡で有能な明君であったといえる。 文帝の治世において特筆すべき大乱はなく、大きな粛清もないことから、総じて社会体制は安定していたと評価できよう。 三国志の編者・陳寿は「好悪の激しすぎる点を改め、広大無辺の度量、仁慈の心を持ち合わせていたのならば、古代の聖王と比較しても何ら劣らない明君となっていただろう」と評しているが、肯われることである。


見解

曹操、曹植と同じように文人としても知られ、その多くの優れた詩は『文選』に収められている。「燕歌行」は現存する最古の七言詩として有名で、漢文のテキストなどにも取り上げられている。その作風は概して繊細優美で、剛直な気風が多い曹植の作品としばしば比較される。冷徹な印象の強い曹丕だが、一方で「胸襟を開いた相手には身分を越えた親愛を示し、時として身分にふさわしくなく、軽佻に見えることもあった」との評があり、たおやかな詩風はその現れとする見方もある。

また中国史上初の文学論評である『典論』を編纂、その中に収められた「論文」は、現存する最古の文芸評論で、「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と述べ文学の効用を宣揚したことで知られる。この考えは、詩人として名高い弟の陳思王曹植が「詩や文で名を残しても何にも成らない。男子たるものは武勲を挙げて善政を支えてこそ本懐である」と語っているのとは、非常に対照的である。

一方で、大変な現実主義・合理主義であったらしく、自らの葬儀に関しては「玉衣や副葬品は不用。墓を飾り、床を敷くのもならぬ。人は死ねば等しく骨となり、もはや骨に痛覚はないのだから」と言い残しており、父・曹操と共通する反儒教的考えを押し出している。もっとも、この考えは老荘思想にも通じるものがあり、文帝の施行した制度などと合わせ鑑みて、このころ既に、六朝で流行する“清談”の基本となる思想が形成されていたのではないか、と指摘する説もある。

曹丕は志怪小説『列異伝』の撰者といわれているが、現行の『列異伝』は『芸文類聚』『水経注』をはじめとする各文献に引用された話を集めた輯本であり、曹丕死後の景初、正始、甘露年間の話も含まれている。

『隋書』経籍志では「列異伝 全三巻、魏文帝撰」とあるが、『旧唐書』では「全三巻、張華撰」となっており、『新唐書』芸文志では「張華撰」とするが、巻数を三巻ではなく一巻とするなど、記録の異同が多い。清の姚振宗『隋書経籍志考証』では「張華が魏文帝に続いて作り、後代の人々が混同したのだろう」としているが査証はない。

もともと「列異伝」という題名自体、誰でも付け得るものであり、『太平御覧』所収の諸文献を比較すると、撰者を記していないケースが多い。撰者名がある場合は、魏文帝に次いで張華が多い。そのほかにも呉の胡冲や西晋の皇甫謐の著作として『列異伝』の名前が見える。さらに、こうした類書の場合、著者の正確性をあまり問題にしないことが多い。このため現行の『列異伝』と曹丕の書がどのような関係にあるか、正確には分からない。