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蜀伝


張飛 益徳ちょうひ えきとく

姓名張飛
益徳
生没年? - 221年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型O型
諡号桓侯
伝評劉備の苦難を支え、曹操を恐喝した人並み外れた勇猛な武人
主な関連人物 劉備 関羽 張苞 
関連年表 184年 黄巾の乱
198年 呂布討伐戦
208年 長阪の戦い
208年 赤壁の戦い
215年 益州征伐戦
219年 巴西の戦い

略歴

張飛、字を益徳といい、琢郡の人である。演義では字は翼徳。子は、張苞、張紹がいる。若いときに関羽とともに劉備に仕えた。関羽が数歳年長であったので、張飛は彼に兄事した。

劉備が曹操に従って呂布を破り、ともに許に帰ると、曹操は張飛を中郎将に任命した。やがて劉備は曹操に背いて、袁紹、劉表のもとへ身を寄せたので、劉備に従い転戦した。

劉表が死ぬと、曹操は荊州に入ってきたので、劉備は逃げて江南へ向かった。曹操は、これを追撃すること一昼夜、当陽の長阪で追いついた。張飛は二十騎を指揮し、川をたてにして橋を切り落とし、目をいからせ矛を小脇にして「わが輩は張益徳である。やってこい。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわった。誰も思いきって近づこうとはせず、そのため劉備は助かった。

劉備は江南を平定し終わると、張飛を宜都太守、征虜将軍に任命し、新亭侯に封じた。のちに南郡に転任した。

劉備が益州に入り、劉璋を攻撃したとき、張飛は諸葛亮とともに、流れをさかのぼって攻め上がり、手分けして郡県を平定した。江州に到着すると、巴郡太守の厳顔を撃破し、厳顔を生け捕りにした。張飛は、厳顔の態度に立腹して処刑しようとしたが、最後まで威風堂々な厳顔を見事だと感じ、彼を釈放して賓客とした。張飛は通過するすべてで勝利をおさめ、劉備と成都で落ち合った。

益州を平定し終えると、張飛は功績を称えられ、恩賞を賜り、巴西太守に任命された。

曹操が張魯を破り、漢中を手に入れると、夏侯淵と張コウを駐留させて、漢川を守備させた。張コウは、諸軍を指揮して巴西をくだし、張飛と相対峙すること五十日以上に及んだ。張飛は精鋭一万を率いて、山道が狭いところにいた張コウ軍を救援からはばみ、かくて張コウを撃破した。

劉備が漢中王となると、張飛は右将軍・仮節に任命された。

221年、車騎将軍に栄転し、司隷校尉を兼務し、昇進して西郷侯に封ぜられた。劉備が呉を討伐するにあたって、張飛は一万の率い、江州で落ちあうことになった。出発に際して、張飛に恨みを抱いていた幕下の将・張達と范彊に殺害された。その首は孫権のもとへ届けられた。

劉備は張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、その内容を聞く前に「ああ、張飛が死んだ」といった。


評価

曹操の参謀であった程イクらから「一人で一万の兵に匹敵する」と、また劉曄にも「武勇は全軍で群を抜く存在である」と評されており、孫権軍都督の周瑜にまで「張・関を従えれば大事業も成せる」と評されるなど、その武勇は曹軍にも孫軍にも高く評価されていた。『三国志』張飛伝では「張飛の勇猛さは関羽に次ぐ」と評されている。

ただ、張飛は士大夫と呼ばれる知識人層には紳士的にふるまったものの、身分の低い者、兵卒などは軽視していた。しかも、治める場所では厳罰を適用し、しばしば死刑にした。それでいて、当り散らしたりなどした当の兵士を側に仕えさせていた。このことを劉備に常々注意されていたが、張飛は改める事が出来ず、ついに死に直結する事態を招くこととなった。

また、三国志を著した陳寿は、「関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であった。関羽は顔良を切ることで曹操に恩返しを果たして去り、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていた。しかし、関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、これらの短所が仇となって、敢え無く最期を遂げる事となった。世の理とは、こういうものなのだろう」と評した。

陳舜臣はこれを、関羽も張飛も、ともに低い身分から士大夫に出世したが、関羽の場合は今や同じ身分となった士大夫に対しての傲慢な振る舞いとなり、張飛の場合は士大夫に出世した事を喜んで同じ身分の者には敬意を払ったが下の者に対して傲慢になるという、正反対の行動になったと解釈している。


逸話

魏略によると、張飛の妻は夏侯淵の姪に当たり、三国志の魏書 諸夏侯曹伝 注の『魏略』に建安5年(200年)、張飛に捕らわれ妻となったが、その娘敬哀皇后・張皇后は二人とも後主の后になっている。魏で司馬懿による政権掌握の政争が起こったとき、夏侯覇はその伝手を頼って蜀に亡命してきている。

『三国志』が注に引く『零陵先賢伝』(この文献自体は散逸)によると、庶民(当時の用語では庶人)上がりの張飛が士大夫の劉巴の元に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがにその態度に腹を立て、諸葛亮もまた劉巴と張飛の間を取りなそうとしたが、劉巴は「大丈夫(立派な男)たる者がこの世に生をうけたからには、当然、天下の英傑とこそ交友を結ぶべきです。どうして一兵卒(張飛のこと)と語り合う必要がありましょうか」と言い捨て、ついに張飛とは親交を結ぶことが無かった。士大夫と庶民との間に、厳然たる身分差と、それによる差別があったことが窺える。