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姓名 | 馬超 |
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字 | 孟起 |
生没年 | 176年 - 222年 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 威侯 |
伝評 | 曹操と敵対し、天下にその勇猛さを知らしめた武人 |
主な関連人物 | 劉備 張飛 馬岱 |
関連年表 |
202年 郭援・高幹の乱を平定 211年 潼関の戦い 214年 劉備と入蜀する 221年 驃騎将軍・涼州牧となる |
馬超は字を孟起といい、扶風郡茂陵県の人である。前漢の馬援の子孫。父は馬騰、弟に馬休、馬鉄、従兄弟に馬岱がいる。子は、馬秋、馬承。また、「反三国志」では、馬雲録という妹が登場している。
父の馬騰は、辺章と韓遂らとともに西州で旗揚げした。
202年、馬超が若い頃、司隷校尉の鍾ヨウらに従って、平陽県にいる郭援と高幹を討伐し、みずから郭援の首級をあげた。
208年、馬騰と韓遂とは結託して義兄弟となったが、一転して仇敵の間柄に変じた。司隷校尉の鍾ヨウと韋端が使者を立て、彼らを和解させた。その後、馬騰は入朝して、警護の役についた。馬超は西涼に留まった。
211年、馬超は曹操と敵対し、軍勢を統率したのち、韓遂と連合するとともに、楊秋、李堪、成宜らとよしみを結び、軍を進めて潼関までやってきた。曹操はただ一人馬に乗り、韓遂、馬超と会談した。曹操は賈クの策略を用い、馬超と韓遂の仲を引き裂いたので、たがいに猜疑しあうようになり、馬超はそのため大敗北を喫した。
馬超は再び諸蛮族を率いて隴上の郡県を攻撃し、これすべて呼応させた。涼州刺史の韋康を殺害して、冀城を拠点とし、その軍勢を配下に収めた。韋康のもとの官吏である楊阜、姜叙、梁寛、趙衢らは、共謀して馬超を攻撃した。馬超は進退谷まってあわてふためき、かくて漢中に逃亡して張魯のもとへ身を寄せた。
214年、張魯はともに事を計るに足らぬ人物だったので、内心いらだちを覚え、馬超は武都から氐族の居住地に逃げ込み、転じて蜀へ出奔した。劉備が使者をやって馬超を迎えさせると、馬超は軍兵を率いて、まっすぐに到着した。劉璋はただちに降伏し、劉備は益州を手に入れた。
馬超は、平西将軍に任命され、臨沮を治め、都亭侯に封じられた。劉備が漢中王になると、馬超は左将軍・仮節に任命された。
221年、馬超は驃騎将軍に昇進し、涼州牧を兼務した。
222年、逝去した。享年47歳。馬超は「臣の一門宗族二百人余りは、孟徳めにあらかた誅殺されてしまい、ただ従弟馬岱だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を継承させてください。深く陛下にお託しいたし、もう申し上げることはございません」と上疏した。
劉備は馬超の来降を聞くと、「私は益州を手に入れたぞ」と言って喜び、すぐさま督郵の 李恢を使者として迎えにやった。
劉備陣営での評価は高かったようで、諸葛亮など多くの人物が彼を賞賛する言葉を残している。彭羕などは真意は不明であるが、自身の驕慢な性格が災いして左遷された後に、馬超に対して、「君が外で兵を挙げ、私が内を取り持てば、天下は思いのままである」などとまで言い放っている。しかし評価はどうあれ、帰順将に過ぎない馬超は、この言葉を受け入れず、合わせて彭羕の劉備に対する讒言を上表したため、結果として彭羕は処刑された。また馬超は劉備の部下になった後は、漢中攻略に従軍しているものの目だった功績はあげていない。
『三国志』の彼の伝に引かれる『山陽公載記』では、馬超は劉備からの待遇が厚いのをいいことに常々劉備の字を呼び捨てにしたため(目上には官職名で呼ぶのが礼儀)、関羽と張飛が怒り馬超を殺そうとしたという一文がある。しかし関羽は当時荊州の守りについており、益州に行った事は無い。よって馬超と関羽が共に劉備の傍にいた事実は考えられない。正史に対して注釈を入れた裴松之も本件については否定している。
小説『三国志演義』において馬超が初登場するのは、長安を占拠した李傕一派と馬騰・韓遂が戦ったときである。わずか17歳で敵将の李蒙、王方を討ち取る鮮烈な活躍を見せるが、父の馬騰が敗れたため敗退している。『演義』においては馬騰は曹操と対立する涼州の一勢力として描かれているため、袁紹残党の高幹と馬一族の戦いは『演義』においては採用されていない。
その後の潼関の戦いにおいては、曹操との因縁について多分な脚色がなされる。史実では馬超の挙兵後、その連座の罪によって、先に曹操領に入っていた馬一族郎党が皆殺しになるが、『演義』においては逆の順序でもって「曹操暗殺計画に加担していた馬騰を、曹操が帝の詔を利用して一族と共におびき寄せ、謀殺した」とし、涼州に留まっていたためその難を逃れた馬超が、唯一生き残った従弟の馬岱と共に復讐の為に韓遂らと共に兵を起こした、という意匠になっている。
このような時系列のすり替えにより、ともすれば一族郎党を捨てて野心から曹操に敵対したと取られなくもない史実と違い、後に劉備に味方する悲劇の英傑としてのイメージが出来上がり、馬超ひいてはその主君劉備の善玉化と、曹操の奸臣ぶりを際立たせるのに役を買っている。
潼関の復讐戦において諸々のエピソードは史実をなぞっているが、ところどころで馬超の勇猛ぶりが史実に増して際立つように筆が進められ、特に曹操が渡河する際、馬超はその超人的な武で曹操軍を蹴散らしながら曹操を苛烈に追う。戦役半ばでは許褚との一騎打ちが挿入されており、馬超は上半身裸になった許褚と演武を繰り広げる。曹操の臣、賈詡の離間の計によりで韓遂と決裂して敗北するのは同じで、韓遂は曹操軍に寝返り、馬超は敗走し、その後も挙兵するが敗れ、妻など残った一族をほぼ皆殺しにされる。
その後、史実と同じく漢中の張魯の元に身を寄せるが、劉璋軍の援軍として劉備軍の張飛と一騎打ちした事象は『演義』の創作である。この時に馬超は諸葛亮の策により張魯に疑われ、引き返せなくなる。そして李恢の説得によって劉備軍に降り、劉璋を脅すことになったため、劉璋は援軍が来ない事を悟り、降伏するというものである。
馬超は蜀に身を寄せ、五虎大将軍に任じられて、曹操と劉備との漢中攻防戦で活躍する。だが、その後の馬超は史実同様精彩を欠き、西涼の錦と言われた力は発揮出来なくなる。
他に、劉禅即位後に魏の司馬懿の進言で曹丕が五つの道を使い蜀を攻めようとした時、その一つ、北から攻めるはずだった羌族は守備する馬超を恐れ、攻め込まなかったという話があり、史実より延命したことになっている。北伐の際、諸葛亮が馬超の墓を訪れる場面があることから、『演義』においてはこのときまでに(南蛮征伐の時期?)死去する設定と思われる。