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姓名 | 秦宓 |
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字 | 子勅 |
生没年 | ? - 226年 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 文学と弁論に優れた学者で、博識を称賛された人物 |
主な関連人物 | 諸葛亮 許靖 夏侯纂 |
関連年表 |
214年 従事祭酒となる 224年 左中郎将・長水校尉となる 225年 大司農となる |
秦宓は字は子勑といい、広漢郡緜竹の人である。
若い頃から才能と学問があり、州や郡から招聘されたが、いつも病気と称して出仕しなかった。
州牧の劉焉に上奏して、儒学者の任定祖を推薦して述べた、「昔、百里奚と蹇叔は老人であったにもかかわらず国策を定め、甘羅や范子奇は年少であったにもかかわらず功業を樹立しました。だからこそ、『尚書』では、黄髪をほめ、『易』では顔淵をたたえているのです。まことに士を選び有能な者を起用する場合、年の長幼にこだわらないことが明白であるとわかります。先日来、海内から推挙される人物は、だいたい英才が多いとはいうものの、老人を無視しております。衆論は一致せず、賛否相い半ばしておりますが、それこそ晋平の世のやり方で、乱世の緊急の方法ではありません。そもそも危急を救い混乱を鎮め、自分の身を整えて人を案じようとするならば、当然卓越した抜群の才能をもち、時世と志に異にし、隣国を震えあがらせ、四方を振動させ、上は天の心にかない、下は民の意に合うような人物でなければなりません。天と民とが一致し、内にかえりみてやましいところがなかったならば、禍乱にあっても、どうして憂えたり恐れたりすることがありましょうか。昔、楚の葉公が龍を好んだため、神聖なる龍が彼のもとへ下りてきました。偽物を好んでさえ天にとどくのです。まして真実であったならばどうでしょう。いま、処士の任安は、仁義と正道によって、その名声は、遙か四方にまで達しております。もしも任用なさったならば、州民すべて心服するでしょう。
昔、湯王が伊尹を登用したところ、不仁の者は遠ざかり、何武が襲勝と襲舎の二人を朝廷に推挙したところ、二人は並んで竹帛に名をとどめました。それゆえ、尋常の高さに目がくらんで万仞の高さを無視し、目前の美しさを喜んで天下の人の評判を忘れたりすることは、まことに昔の人々がはばかり慎んだことであります。最初は、意志を穿って玉を求め、どぶ貝をあけて真珠を求めようと望んでおられたでしょうが、いま隋候の珠、和氏の壁がきらきらと太陽のように輝いているのです。何を迷われることがありましょうか。本当に真昼に燭をともさないのは、太陽にあり余る光があるからだと存じておりますものの、ただ私の気持が落ち着かぬゆえ、愚見をくだくだしく申し述べる次第です。」
『益部耆旧伝』にいう。任安は広漢の人である。若いころから聘士の楊厚の師事して、図籍を極めつくし、都を見物してしまうと、故郷に帰って学生を教え、董扶と学問・品行において同等の名声を博した。郡が功曹の官に、州が治中別駕の官に就任を要請したが、けっきょく、長く在任しなかった。孝廉と茂才に推挙されて、太尉に招聘され、博士に任命され、公用車で招かれたが、すべて病気と称して就任しなかった。州牧の劉焉が推薦の上奏文をたてまつった、「任安は道の規範を味わい研究し、節義をみがき高邁な人物です。その器量を考えてみるに国家の大宝です。疑問を正す輔佐の役におらせて、尋常でない災厄を除去させるのが適当かと存じます。赤黒い色の絹を贈物とする礼によって招聘の命を下されるのにふさわしい人です。」朝廷への連絡の道がふさがれていて、けっきょく招聘の命は下らなかった。七十九歳で、建安七年(202年)になくなったが、門下生は敬慕して、彼のために碑銘をたてた。後年、丞相の諸葛亮が、秦宓に任安のすぐれた点をたずねたところ、秦宓は、「人の善事を記憶し、人の過失を忘れることです」と答えた。
劉璋の時代、秦宓と同じ郡の出身王商は、治中従事となり、秦宓に手紙を送って述べた、「貧賊の中で困窮しておられますが、いったいいつまでそんな暮らしをされるのですか。卞和は名玉を売りこむことによって、世間にその価値を認められました。どうか、一度おいでになって、わが君とお会いになってください。」秦宓の返信にいう、「昔、堯の許由に対する好意は大きくなかったわけではありませんでしたが、その両耳を洗いました。楚国の荘周に対する招聘は手厚くなかったわけではありませんでしたが、荘周はさおを握ったまま振り向きもしませんでした。『易』では『確乎として、それを抜くべからず』といっております。そもそもどうして売りこむ必要があるのでしょうか。それに、国主の賢明さがある上に、子が良き輔佐役となっておられるのです。この時にあたって、蕭何や張良のような計策をたてられないのなら、智者というにはほど遠いでしょう。私は畑のまん中で背中を日光にさらし、顔氏の粗食の暮らしを口ずさみ、原憲のあばら屋の住まいをうたい、時には林や沢をめぐり歩き、長沮・陰者の仲間とつきあい、玄猿の悲しげな声に耳をすまし、奥深い沢で鶴の鳴いているのを見て、安らかな生活を楽しみ、憂いのないのを幸福とし、人知れぬ名と役に立たぬ才能をわが身上といたしております。私を知る者がほとんどいなければ、私がそれだけ高貴だということになるのです。現在こそ私の得意の時であります、どうして困苦の憂いなどありましょうぞ。」
後に、王商が厳君平と李弘のために祠を立てたとき、秦宓は手紙を送って述べた、「病気で伏せっておりましたので、今はじめてあなたが、厳と李のために祠をお建てになったと知りました。同類の者に対して手厚いはからいと申せましょう。厳君平の文章をみますと、天下第一等のものであり、許由や伯夷のようなずばぬけた節操をもち、山のようにどっしりとして動揺しませんでした。たとえ揚子の彼に対する感嘆の言葉がなかったとしても、当然自分の力で光輝いたことでしょう。李仲元はいうと、『法言』の称揚がなかったならば、令名は必ずや没したでありましょう。それは彼が美しい文章を書き残さなかったためであって、龍や凰のおかげで名を残したといってよいでしょう。揚子雲の場合は著述に専念して、世の中に利益をもたらし、泥の中にうずくまりながら汚れず、聖き師にならって行動しまして、現在でも海内において彼の文辞は誦されております。わが郷にこの人がおり、四方の彼方まで輝きわたっておりますのに、子が彼を捨ておいて祠堂を建てられないことを、不思議に思っております。蜀にはもともと学者がおらず、文翁が司馬相如を東方にやり、七経の学問を受けさせ、帰ってきて役人や民衆に教えさせ、その結果、蜀の学問は斉や魯の国と肩をならべるようになったのです。それゆえ地理志に、『文翁が教えを唱導し、相如が先生となった』と述べているのです。漢室は士人を迎え入れることによってその時代を隆盛に導きましたが、董仲舒たちは、封禅の儀式に理解がなく、司馬相如がその礼を制定いたしました。そもそもよく礼を制定し音楽を作り、風俗を美化するのは、礼の秩序によって世の中の利益を与えることではないでしょうか。卓王孫の罪はありますものの、ちょうど孔子が斉の桓公の覇業をたたえ、公羊が叔術の国を譲ったことをほめているのと同様、私もまた司馬長卿の教化をりっぱだと考えるものです。どうか祠堂を建設なさり、すみやかにその銘文を制定してください。」
これより先に、李権が秦宓より『戦国策』を借りたとき、秦宓が「『戦国策』は合縦連衡の策を記述したものですが、それを利用してどうしようというのですか」というと、李権は「仲尼と厳平は多くの書籍を収集して、『春秋』と『指帰』の文章を作成しました。当然、海は大小の流れを集めて広大となり、君子は博識によって弘遠となるのです」といった。秦宓は答えて、「魯の年代記や周の図書類以外の書物を、仲尼は採用しませんでした。虚無自然以外の道を、厳平は叙述しませんでした。海は泥を受け入れても、年に一度洗い清めます。君子は博識であっても、礼に合しないものには目もくれません。いま、『戦国策』は蘇秦・張儀の術をくりかえし語り、人を殺してみずから生き、人を亡ぼしてみずから存することを述べており、経典の忌み嫌う内容です。だからこそ、孔子は発憤して『春秋』を作り正しい生き方を評価し、さらに『孝経』を作って広く徳行を説いたのです。悪の糸口を断ち兆しを防ぐには、あらかじめその根源を封じることが必要であり、だからこそ老子は、悪をまだ芽生えないうちに根絶しようとしたのです。まことに真実ではないでしょうか。殷の湯王は大いなる聖人ですが、野の魚をみつけると取りあさるという欠点がありましたし、魯の定公はすぐれた人物ですが、妓女の舞楽を見て政務を放棄しました。このような類の人たちは枚挙にいとまがないほどございます。道家の法に、『欲望の対象を目にしなかったならば、心を乱さないですむ』とあります。だからこそ天地の道は正しくして万物に示され、日月の道は正しくして万物に輝くのです。いかなる状況においても矢のようにまっすぐなこと、それこそ君子の行為なのです。洪範は災禍を説明して、言葉や態度からおこると記しているのですから、どうして『戦国策』に権謀を参考にする必要がありましょうか。」
ある人が秦宓に向かって、「足下は自分を巣父・許由・四皓になぞらえることを望んでおられながら、なぜ文才を発揮され、すばらしい才能を人に示されるのですか」というと、秦宓は答えた。「私の文章は言葉のもつ機能を充分に使いきることができず、言葉は自分の心にあることを完全に表現しきることができずにおります。どこに才能を発揮した点があるのでしょうか。昔、孔子は哀公と三度会い、そのときの言葉は七巻の書物となっております。つまり当時の状況に口をつぐんでいるわけにはいかなかったからでしょう。狂接興は孔子の前を通り過ぎながら歌を唱いましたが、『論語』の編纂者はそれを取りあげることによって、書物に光をそえ、漁父は滄浪の水を唱いましたが、賢者はそれを引くことによって一篇を飾りました。この二人は、その時代に対して思惑があった者ではありません。そもそも虎は生まれつき美しい模様があり、鳳は生まれながらにして五色なのであって、いったい五つの色彩によって自分を飾り立てたのでしょうか。生まれたときからそうなっているのです。つまり『河図』・『洛書』も六経も文彩によって広まりました。君子は文徳をみがくもので、文彩のあることがどうして傷になりましょう。愚かな私でもなお革子成の誤ちを恥ずかしいと思ったのですから、まして、私より賢明なお方ならいうまでもないことでありましょう。」
劉備が益州を平定したのち、広漢太守の夏侯纂が秦宓を招聘して師友祭酒とし、五官掾を兼ねさせ、仲父とよんだ。
秦宓が病気と称して、邸に臥せっていたところ、夏侯纂は功曹の古朴、主簿の王普をひきつれ、食膳を持ち運んで秦宓の邸を訪れ、くつろいだ座談を楽しんだが、秦宓は以前のとおり横になったままであった。夏侯纂が古朴に、「君の州が産出する生活必需品は、実際他の州を断然引き離しているが、士人については他の州と比較してどうかね」とたずねると、古朴は答えた、「前漢以来、爵位についた者はあるいは他の州に及ばないかもしれませんが、書物を著述して世の手本になった者となると、他の州にひけをとりません。厳君平は黄帝・老子という道家の書を見て『指帰』を作り、揚雄は『易』をみて『太玄経』を作り、『論語』をみて『法言』を著わし、司馬相如は武帝のために封禅の文章を制作しました。それらは今にいたっても天下の人誰もが知っているものです。」
夏侯纂が「仲父はどうだ」というと、秦宓は、簿で頬をたたきながらいった、「どうか明府には、私のような田舎者に仲父などとおっしゃらないでください。私は明府のために、この国の大筋を説明したいと思います。蜀には汶阜の山岳があり、長江がその仲腹から流れ出ておりまして、天帝はこの地に昌運を集め、鬼神はこの地に幸いをうち建てたまい、そのおかげで肥沃な地が千里にわたって広がったのです。淮水・済水・長江・黄河の四大河川のうち、長江はその筆頭であります。これがその第一であります。禹は石紐でうまれましたが、今汶山郡がこれにあたります。昔、堯が大洪水にあい、鯀が治水に失敗したあと、禹は長江の水を通し黄河の堤を切り、東方の海へ注ぎこませ、民衆のために災害をのぞき去りました。人類発祥以来、功において彼に勝る者はおりません。これがその二番目です。天帝は房・心の動きを見て政治を施き、参・伐の動きを見て政策を決定いたしますが、参・伐は益州の分野に当たります。三皇は祇車に乗って谷口を出られますが、それは今の斜谷に該当します。これがすなわちわが州の地理でございますが、明府のみこころで判断なさると、天下の諸地方に比べていかがなるものでありましょうか。」その結果、夏侯纂はもじもじしたまま、もう言葉をかえさなかった。
益州では、召し出して従事祭酒に任じた。
劉備が帝号を称したのち、東方に向かって呉を征討しようとしたとき、秦宓は天の与える時機からいって必ず勝利は得られないと説いたかどで、獄に幽閉されたが、後に釈放された。
224年、氶相諸葛亮が益州の牧になったとき、秦宓を抜擢して迎えて別駕とし、続いて左中郎将・長水校尉とした。
呉が張温を挨拶の使者として寄こしたとき、百官がすべてはなむけにやってきた。人々がみな集まっているのに、秦宓だけがまだ来なかったので、諸葛亮がしきりに使いをやって、彼をせかせたところ、張温は「彼はどんな人なのですか」と聞いた。諸葛亮は答えて、「益州の学者です」といった。彼が来ると、張温は「あなたは学問をしておられるのですか」とたずね、秦宓は、「五尺の童子でさえみな学問をやります。何も私だけに限らないでしょう」といった。張温、「どの方角にありますか。」秦宓、「西方にあります。『詩経』に『乃ちけんとして西に顧みる』とあり、これから推せば、頭は西方にあります。」張温、「天には耳がありますか。」秦宓、「天は高所にあって低い所の音を聴衆いたします。『詩経』に鶴鶏は九皋に鳴き、声は天に聞こゆ』とあります。もし耳がなかったならば、どうしてこれを聴きとれましょうか。」張温、「天には足がありますか。」秦宓、「あります。『詩経』に『天の歩みは艱難、この子はからず』とあり、もし足がなかったならば、どうして歩けましょうか。」張温、「天には姓がありますか。」秦宓、「あります。」張温、「なんという姓ですか。」秦宓、「劉という姓です。」張温、「どうしてそうだとわかるのです。」秦宓「天子の姓が劉だから、これによってわかります。」張温、「日は東方で生まれるのですか。」秦宓、「東方で生まれますが、西方で死にます。」解答は打てば響くように、相手の声に応じて出された。この結果、張温は大いに敬服した。
秦宓の文章・弁論は、みなこういったようすであった。
大司農に昇進し、226年になくなった。享年不明。
秦宓は最初、脱世俗を慕いながら、愚人のふりをして世を避けるという、裏付けの行為がなかった。しかし他国の使者に対しる受け答えは余裕があり、文章は壮麗であった。一代の才士と評された。
そのむかし、秦宓は皇帝の系譜を書いた文章に五帝がみな同族とされているのをみて、それに反対する説を明らかにした。また皇・帝・王・覇について議論、龍の養育係についての議論を展開して、はなはだ筋道立っていた。譙允南は若いころしばしば訪問してあれこれ質問し『春秋然否論』の中にそのことばを記録している。
裴松之は魯の定公について、「記録によれば、魯の定公には称賛すべき善行がない。秦宓は彼をすぐれた人物といっているが、私ごとき浅学には理解できないことである」と述べている。
夏侯纂との座談について、劉向の『七略』にいう。孔子は三度哀公に会って『三朝記』七篇を作成したが、現在は『大戴礼』のなかに入っている。裴松之の調べでは、『中経部』に『孔子三朝』八巻が記されているが、うち一巻は目録であり、その他がいわゆる七篇である。いま、『論語』では棘子成と書いている。棘子成は、「君子たる条件は、質朴さだけで充分である、文彩など何の必要があろう」といったが、子貢の説に屈服した。だから、これを誤ちというのである。