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魏伝


王朗 景興おうろう けいこう

姓名王朗
景興
生没年? - 228年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号成侯
伝評博識で才能がすば抜けており、正義感の強い政治家
主な関連人物 曹操 曹丕 曹叡 鍾繇 
関連年表 193年 会稽太守となる
213年 軍祭酒・魏郡太守となる
220年 司空・安陵亭侯となる
226年 司徒・蘭陵候となる

略歴

王朗、字を景興といい、東海郡郯県の人である。子は王粛、甥(兄の子)は王詳、孫は王元姫らがいる。

経書に通じていることから、郎中に任じられ、葘丘の長にに任命された。太尉の楊賜を師と仰いでいたが、楊賜が逝去したので、官を捨てて喪に服した。孝廉に推挙され、公府に招聘されたが、応じなかった。

徐州の刺史陶謙は王朗を茂才に推挙した。当時、漢帝は長安にあり、関東には兵乱が起こっていた。王朗は陶謙の治中となったが、別駕の趙昱らとともに陶謙に進言した、「『春秋』の道理からすると、諸侯に対してこちらの意思を通すには勤王ほどよいものはありません。今、天子ははるか西の都におわします。よろしく使者を派遣して王令をつつしんでうけたまわるべきです。」陶謙はそこで趙昱に上奏文を捧持させて長安に行かせた。天子はその心を嘉いたまい、陶謙を安東将軍に任命し、趙昱を広陵の太守に、王朗は会稽の太守にとりたてた。

会稽では古来、秦の始皇帝を祭っており、その木像を夏の禹と同じ社に置いていた。王朗は着任すると、徳のない君主であったから、祭祀するにふさわしくないと判断した。その結果それをとり除いた。郡にいること四年、郡民をいつくしんだ。

孫策が長江を渡って土地を攻略した。王朗の功曹虞翻は、力では防ぐことが不可能だから、そのする鋭鋒を避けるほうがよいと判断した。王朗自身は身分が漢の官吏であることから、城邑を保持するべきだと考えた。かくて兵をこぞり孫策と戦い敗れ、海を渡って東冶にまで行った。孫策はまた追撃し、大いに彼らを打ち破った。王朗はそこで孫策のもとに出頭した。孫策は王朗が儒学の教養ある正しい人間であることから、問責しただけで殺さなかった。流浪と困窮の中にあって、朝起きてもその夜の計画さえ立てられないさしせまった状態ではあったが、親戚旧知をよせ集めいくつくしんだ。分け前が多い場合も少ない場合もあったが、同義に基づく行為ははなはだ目立っていた。

孫策は軍をひきいて越などに赴き、王朗を討伐した。王朗は船を浮かべて海にでて、交州に逃れるつもりだったが、兵に追い迫られ、けっきょく孫策の軍に出頭して降伏した。孫策は使者に王朗を問責させた、「逆賊もと会稽の太守王朗に訊問する。郎は国恩を受けて官位にありながら、どうして特に報いることを考えずに、軍兵をたのんで平気で残忍なことをするのか。大軍が討伐したとき幸いにさらし首を免れながら、きっぱりと身を引こうとせず、ふたたび仲間どもを集め、群境にたむろした。はるかに王の討伐をわずらわしながら、あくまで目をさまして帰順さず、捕縛されてここに降状し、うまくだますことによって首をつなごうと願っている。そういくかどうか、詳しくありのままに返答せよ。」王朗は捕虜とみずから称し、使者に答えた、「私はわずかな才能をもって公私の地位をぬすみとり、爵を受けて辞退せず、その結果罪網にかかりました。先に征討させられたとき、死を恐れて一時のがれの態度をとり、そのまま人や物を統治し、つかのま生命を長らえようとしましたが、また大兵に迫られて、恐れおののき北へ引き返しました。従者は病気にかかり、ほとんど死亡してしまい、ただ一人老母とともに、一艘の小舟に乗りました。流矢が飛び交い始めると、すぐ小舟を捨て捕われ人となり、額を地面につけ、ご征伐の軍中に自首いたしました。私は恐れとまどい、わけがわからず、降状した捕虜と自称しております。先に迷いとあやまりのため、詰問されて恥じ入れ恐れております。私は愚かで浅はか、のろまで臆病な男でございまして、威勢をおそれてあわてふためきましたうえ、すぐれた輔佐もなかったため、いち早く自分から帰順することをいたしませんでした。破滅と逃亡の中にあって、はじめて生命をゆだねて罪人となりました。身は軽輩で罪は重大、死んでもつぐなえぬとがが残りましょう。うなじをさしのべ縄目につき、足をちぢめてきずなに入り、叱咤の声を黙って聞き、東に行くも西に行くもご命令のままにお受けします。」

213年、曹操は上奏して王朗を召し寄せた。王朗は曲阿から長江と海を行ったり来たりしながら、何年もかかってやっと到達した。諫議大夫・参司空軍事に任命された。

魏が建国されると、軍祭酒の身分のまま魏郡の太守を兼務し、少府、奉常、大理と昇進した。寛容につとめ、罪に疑義があれば軽いほうに従った。鍾繇はすぐれた推察力によって法を運用し、ともに裁きの見事さをたたえられた。

王朗が召し出しを受けながら出向かないでいる間に、孔融は王朗に手紙を送って述べた、「世間への路はふさがれ、心のこもったたよりもたちきれ、わきおこる思いはいや増します。先に上奏を見、湯王・武王がおのれをとがめた事跡にならい、みずから東のはてに身を投じたコンと同じ刑罰を引き受けられたことを知りました。最後まで拝読しないうちに、涙がぽたぽたと落ちました。主上は寛容で仁愛深くおわし、徳を尊びあやまちを許されます。曹公は政治に輔佐され、賢人と肩を並べたいとおもわれ、命令の文章をしばしば下され、ねんごろにまごころを尽くしておられます。舟をこぎ海に浮かび、広陵にて一休みされたと知りましたが、黄色の熊が突然羽淵から出てくるとは思いもよりませんでした。いつかは談笑の時もめぐってまいりましょう。せっかく、ご自愛ください。」

孫策は最初に王朗をつかまえたとき、彼をとがめ追及した。張昭にこっそり王朗の様子をみさせたが、王朗は屈服しまいと決意していた。孫策はしゃくにさわったが、あえて殺すことはせず、曲阿にひきとめておいた。

曹操は上奏して王朗を召し寄せ、孫策は彼を行かせたあと、曹操は訊ねた、「孫策はなんとしてあれまでになれたのじゃ。」王朗は、「孫策は、武勇一世をおおい、すぐれた才能、大きな野望を懐いております。張子布は人民に信望のある男ですが、北面して彼を助け、周公瑾は江淮の英傑ですが、腕をまくって彼の武将となっております。計画すれば成果があり、もくろんでいることは小さくありません。けっきょくは天下の大賊となりましょう。ただのこそどろではありませんぞ。」

曹丕が王位につくと、御史大夫に昇進し、安陵亭候に封じられた。上奏して民をはぐくみ刑をへらすことを勧めて次のように述べた、「兵乱が起こってからこのかた三十余年、四海の内はゆれくつがえり、万国は病み疲れております。さいわいに先王は盗賊を掃蕩なさり、身寄りのない幼子を扶養され、かくて中国にふたたび規律がもたらされました。億兆の民を糾合され、その結果魏の領内には鶏が鳴き犬が吠え、四方の境界にとどき、民草がにこにこと奏平を喜ぶ状況となりました。今、遠方の仇敵がまだ服従せず、戦争の役務はまだ終息しません。もし、免除が遠くの民を充分になつかせ、よき行政官が充分に恩沢をほどこし、東西のあぜがすべてととのい、四方の民が隆盛ということになれば、必ずふたたび昔日を超え、平時よりゆたかになります。『易』は『法をととのう』と称し、『尚書』は『刑を詳う』と記し、『一人慶有れば、兆民これに頼る』といいますが、刑罰裁判を慎重にする意味です。昔、曹相国は裁判と市場のことをひきつぎ、路温舒は裁判にたずさわる役人を憎悪しました。そもそも裁判が事件の真実をつかめば、無実に死ぬ囚人はなく、壮年の男子が土地の生産力を充分に発揮させ得るならば、饑饉に陥る民はなく、貧窮者や老人が米倉から食物を支給されるのならば、飢餓による死人はなく、結婚が時機どおり行われるならば、男も女もつれあいをもたぬうらみはなく、胎児の養育が必ずまっとうされれば、みごもった者に身体をそこなうかなしみはなく、新生児を持つ者には必ず労役免除の措置をとれば、みどりごは育たない心配はなく、成年に達してのち労役を課すれば、未成年者に家庭を離れる悲しみはなく、半白の人を戦にかりたてなければ、老人に行き倒れの災難はございません。医療と薬によってその病気を癒やし、寛大な労役によってその仕事をたのしませ、権威と刑罰によって強者を抑え、恩情と仁愛によって弱者をすくい、福祉政策によって貧窮をたすけます。十年ののちには、成年に達した若人が必ずや街にあふれましょう。二十年ののちには、必勝の兵士が必ずや野に満ちましょう。」

曹丕が帝位につくと、あらためて司空となり、楽平郷候に昇進した。当時、曹丕はよく狩猟に出かけ、日が暮れてから宮殿に帰ってくることもあった。王朗は上奏して述べた、「そもそも帝王は住居は、外は周囲に護衛をととのえ、内は宮中に御門を幾度にもめぐらすものです。お出ましになろうというときは、兵をならべておいたのちトバリは出られ、先ばらいの声がかけられたのちキザハシをふまれ、弓がひきしぼられたのちみくるまに乗られ、道路が清掃されたのちみくるまを引きたてまつり、護衛が列を作って通行人をさえぎってのちみくるまの向きをかえ、宮室を清めてのちみくるまをやすめられます。すべて至尊の地位を顕示し、警戒に気をくばり、法のおきてを教示するためでございます。近ごろ、みくるまでお出ましになり虎狩りに臨まれたとき、日が傾いてから出発され、夜になってからご帰還なさいましたのは、天子行幸の際の常法に違反し、天子の心がけたまうべき最高の慎重さにも欠けております。」曹丕は答えた、「上奏を見た。魏絳が狩猟系のいましめを引いいて晋の悼公をさとし、司馬相如が猛獣に書きつらねて漢の武帝をいましめたのも、前例にならないほどだ。現在二賊はいまだに滅びす、将軍たちは遠征している。だから、時には原野に入って戦争の備えとして訓練しているのだ。夜帰還することについての忠告は、すでに所管の役人に詔して手を打ってある。」

『魏名臣奏』に王朗の「節省奏」を載せている、「詔にて合理化すべき点について質問されておりますのでは、必ずや東京の事を指しているのでしょう。あの西京の雲陽・汾陰における大祭、千五百に及ぶ群小の祭祀、それに通天の台で祈り、阿房の宮に入るといった場合は、必ず百日のものいみをし、いけにえの獣を五年間養います。牛は三千頭、貴重な宝石は七千、器物は美しい模様をつけてりっぱな座席を飾り、童女は足を踏みならしての舞にいろどりをそえます。かもされた芳醇な酒は必ず三季節をすごしてはじめてできあがり、楽師は必ず三千四百人あまってはじめてそろうことになります。後宮の美人の数は千人近くにまでのぼり、学宮博士は七千余人です。殿内にはみくるまのそえ馬が六万余頭、郊外の牧場にはおつきの馬飼いが三万人おります。太常管軸の御陵をめぐり行幸するときのお召し車が千台、たずさわる役人六千、中二千石管下の取り調べと刑の執行にあたる獄が二十五箇所ございます。行政事務は冗漫、儀礼は繁多で、三代より盛ん、ほとんど礼の中唐を越えております。そもそもこのように奢侈を極めた原因の大部分は、ほとんど秦の影響によります。繭のごとき形と栗のごとき、角の犠牲の牛を用いて直心を尽す基本、地面を掃き清めるだけの簡略さを尊ぶ、意図に反するうえに、質朴へ引き戻して華美をなくし、驕奢を退けて倹約に従わせるという趣旨にはずれております。現代は隆盛の時代を現出し、堯・舜のみ代を手本といたしまして、奢侈を断ち節倹に務めた政治、繁雑を去り簡略を旨とした命令、正しい裁判と慎重な刑罰による教化を行う土岐でありまして、ぜいたくを望み慕う時代でありましょうか。それに、日に一度太牢を用いて行う霊廟での祭祀、郡国すべてにわたって宗廟を立てさせる法、丞相・御史大夫の属官従吏の数、このようなものは、すでにたびたび哀帝・平帝以前に改革され、光武帝以後には実施されていないはずです。謹んで絵図と文書によるい改革案を考えてみますに、天と地、それに五帝・六宗・宗廟・社稷については、もはや前代の社域を利用しているだけです。そもそも天と地は地面を掃き清めて祭りますが、その他はすべて壇を築いてそれに垣を作るだけです。明堂は上帝を祭る所、霊台は天文を観察する所、辟雍は礼楽を修める所、太学は学者を集める所、高ばいは吉祥を祈る所、また時節に応じた仕事を明示し、教化を高める所でもあります。古代をかえりみますに人々が慶祝の行事をとり行う場合、過去にあってはすべて国都の南において行いました。いずれも高い大きな建物を作りましたが、饗宴の礼、射術の礼を行ない、雲の形や色を見て吉凶を占うにはそれで充分でした。七郊の祭は祭祀そのものを大事にし質素を尊びますが、それでもすべて門と屋根、簡単な座敷があって、風雨を避けるだけの施設がございます。戦いが終わりみのりが豊かになるのを待ってだんだんと修理すればよいでしょう。過去には、虎賁・羽林の五つの軍営と宮中警護の兵士を合計すると、一万人に達するほどでしたが、そのうちのあるものは商売をしている怠惰で遊び癖のある子弟たち、あるものは農耕を営むまじめだが愚純な人たちでした。訓練の場所があるとはいえ、いくさの陣立を教えておりません。訓練をしないうえに外的侵入の経験もほとんどありません。たてまえと実質とがあわず、危急に対する備えにはなりがたいのです。警報があってのち兵士を募集し、軍が進んだあとに兵糧を運送します。あるいは軍隊がすでに長期間駐屯しているのに、農耕に努力せず、武器を修繕せず、蓄積があるわけではありません。一方面で危急の文書が飛べば、三方はいずれも荒れて乱れます。これもまた漢朝が行なった近代の誤りで、のっとるわけにはいかないことです。現在、中国の諸地方はすでに安定しましたが、巴・蜀は支配区域の外にあります。まだ武具をおさめて甲をしまいこみ、馬を解き放って兵器を倉に入れるわけにはまいりませんが、みのりの大豊作を利用して、軍政を農業に結びつけるべきかと存じます。上下の軍吏・兵士はいずれも農作業に従事し、休止のときは広野において農村を形成し、出動のときは六軍の中で部隊を形成し、そのむちゃな労役を節減し、その衣食を充足させます。『易』が『悦ばして以て民を使えば、民は其の労を忘れる。悦ばして以て難を犯さば、民は其の死を忘る』というのは、上のことにあてはまります。兵糧は生活の中で貯えられ、勇気は状況の中で養われ、いながらにして武威をかがやかせることとなりまして、軍勢を動かさずに、域外の蛮族は、必ず額を地につけ、過去の態度を改めて手足となってはたらきましょう。もし威勢をおそれ手足となってはたらき、戦わずして平定されれば、戦いを交えてのち威光が確立し、刃をかわしてのち功績が成り立つよりはるかにまさります。もし凶悪な者どもが態度を改めず、そのまま正道にたちかえらず、なおもそのしいたげ、意のままにしている人民を用いて、命をなげだし教育の恩に報いようとする大魏の兵士の到来を待ちうけるつもりならば、そのあとでおもむろに、前に歌い後に舞う征伐を楽しむ軍勢をもって、あのほこを逆に向け、矢を折って屈服を願う民衆に臨みます。くち木を切り枯木をくだくのも、比較の対象とならないほどです。」

孫権の子の孫登を参内させて、天子に近侍させるつもりだったが、到着しなかった。このとき、みくるまは許昌に移り、大いに屯田を開き、軍ををおって東征するつもりだった。王朗は上奏した、「昔、南越は善良な態度を守って、嬰斉を送って天子に近侍させ、その結果、後継ぎとなり、帰還してその国の君主になりました。康居は驕慢にして狡猾、実情が言葉と一致しなかったので、都護が上奏して王子を近侍として派遣させ、無礼をやめさせるべきだと主張いたしました。一方、呉王劉濞の起こした戦乱は、王子の入内に端を発し、隗囂の反乱もまた質子の安全を気にかけませんでした。先ごろ、孫権に、子をつかわすとの発言があったと聞きましたが、いまだに到着しておりません。今、六軍は非常体制をとっていますが、臣が心配いたしますので、一般庶民が聖旨をよく理解せず、国家は孫登の遅延をいきどおり、その結果それを理由に軍を出動させるのだと考えるにちがいないことです。もし軍隊が出動した結果、孫登が来るとすれば、動かしたものがきわめて大きいのに、招致したものがきわめて小さいことになりまして、慶事とするほどのことはございません。もし彼らが凶悪、まったく入内の意思がなければ、聖旨を充分理解していない庶民たちは、いずれも憤懣を抱くのではないかと懸念されます。わたくしの愚かな考えでは、別動の遠征諸将に命令し、各自禁令をかしこみ、部署を慎重に守るのが適当かと存じます。外は威光をかがやかせ、内は農業をひろめられ、彼らに山のようにどっしりと、淵のようにひそやかな態度をとり、びくともしない状況と予測しえない計略をとらせますように。」このとき、帝は軍を編成していたためけっきょく進発したが、孫権の子はやってこず、みくるまは長江を目の前に見て引き返した。

みくるまが帰還してのち、三公の詔勅を下して述べた。「三代続けて将軍となることは、道家のタブーとするところであり、武力の限りを尽くして武徳をけがすことについては、古えからすでに警告がある。まして連年水害があり、宮民は消耗しているのに、土木後事は前より倍、労役も昔に倍し、進んでは賊を滅ぼせず、退いては民に平和をもたらせないでいるのだ。だいたい、雨もりは上でするがそれがわかるのは下においてなのだ。しかしながら、道に迷っても引き返すことをわきまえておれば、正しい道からはずれることは遠くなく、過失を犯してもよく改めれば、過失を犯さなかったと判断される。今は休息して、劉備を高山にすまわせ、孫権を深淵に沈めおき、除外して彼らを境域外と棄て去ろう。くるまは今月中旬をもって譙に到着し、淮水・漢水へ遠征の諸軍もそれぞれ帰途につき、年の暮れぬうちに西に帰るであろう。」

曹叡が即位すると、蘭陵候に昇進し、五百戸を加増され、前と合計して千二百戸となった。使者として業に行き、文詔皇后の陵墓に参詣したが、人民のうちに生活にことかくものがいるのを見た。このとき宮殿を建築修復している最中だった。王朗は上奏して述べた、「陛下は即位以来、恩愛のこもった詔勅をたびたび発布され、万民こぞって喜ばないものはございません。臣は先ごろ使者を仰せつけられ北にいきましたが、往復の路上で、お上の労役が多いことを聞き知りました。そのうち免除削除することが可能なものはたいへん多くございます。願わくは陛下には日が傾くまで意見聴取につとめた態度に重ねて留意されまして、敵を制圧することをおはかりください。昔、大禹は天下の大難を救いたいと考えられ、そのためにまずその宮殿を小さくし、その衣食をつつましくし、それによってよく九州をすべて支配し、五服を補い整えました。句践はかの禦児の国境を広げ、姑蘇にいる夫差の首を斬らんと図り、そのためにわが身をひきしめて家に及ぼし、わが家をつつましくして国にあてはめ、それによって五湖を包含し、三江を席巻し、中国に対して権威をうち立て、中華に対して覇権を確立しました。漢の文帝・景帝をまた祖先以来の事業を拡大し、大いなる仕事をいっそうおしすすめたいと考えられ、そのためによく百金の台を諦め、黒いつむぎの服に質素さを示され、内は太官のすすめる食膳をへらされて献上を受けられず、外はお上の労役をはぶかれて農桑につとめられ、それによってよく太平をうたわれ、ほとんど刑罰は用いられないまでに至りました。孝武帝がよくその軍勢をふるい、その国境を開拓されたのは、まことに祖父・父の豊かな平素よりの蓄積を利用されたのであって、そのためよく大功を遂行されたのです。霍去病は凡庸な将軍ですが、それでも句奴がまだ滅亡しないことを理由に邸宅をかまえませんでした。遠くに気をとられるものは近くをおろそかにし、外に力をそそぐものは内をなおざりにします。漢のはじめからその中興までは、すべて、戦争がほぼ止んだ後でして、そのあとで鳳闕がむやみに高くなり、徳陽が並びだったのです。今、建始の前は充分朝議の参列が可能ですし、崇華の後は充分内官を並べておくことができますし、華林・天淵は充分宴遊を開けます。もしひとまず先に宮門の象魏を完成しますれば、充分遠来の朝貢者を参列させられますし、城を修理しておきますれば、充分侵入を断ち、国都の堅固な守りを形成できます。その他のすべてのことは、しばらく豊年を待ってください。もっぱら農耕にはげむことをつとめされ、戦備にしたしむこと力は強大となります。これで外敵が従わず、徳の輝きが足らないことはありえなかったことでございます。」司徒に転任した。

当時、たびたび皇子を死なせたのに、後官では館へ行く者が少なかった。王朗は上奏して述べた、「昔、周の文王は十五歳で武王をもうけ、けっきょく十人の子宝にめぐまれ、姫氏の子孫を広められました。武王は年老いてのち成王を生まれ、それで成王は兄弟が少なかったのです。この二王はそれぞれ聖徳をうちたてられ、どちらが上とも申されませんが、その子孫を授かった幸せを比べますと、及ばないのです。だいたい産んだ年には早い遅いがあり、生んだ数には、多い少ないがあるものです。陛下はすでにおん徳おん福ともにかの二聖を兼ねそなえられ、おん齢は姫氏の文王が武王をもうけられた時よりも上になられます。それなのに子の発はいまだに椒蘭の奥座敷でお生まれにならず、藩王はいまだに掖庭の部屋部屋に数多くはございません。成王を比較の対象としますと、まだ遅いとは申せませんが、伯邑と比較しますれば、早いとは申せません。『周礼』には六宮の女官百二十人とありますが、諸経典の通説ではすべて十二人を限度としたと考えております。秦・漢の末期になりますと、三けた四けたの数になる場合もでてまいりました。しかしながら、むやみにふえたとは申せ、時期がきてめでたい館に行く者は特定の人たちに限られていたものです。『斯の男の百とする』根本は、実際集中することにありまして、相手を多くすることにつとめればよいとは限りません。老臣はまごころから、二十五人の子宝にめぐまれた軒轅と国家が等しからんことを願っているのでございますが、いまだに周の文王の十人にも及びません。そのために心を痛めております。そのうえ、ご幼少のころよりいつもあまりにも心地よく暖かなしとねを用いられておられます。心地よく暖かであれば柔らかい膚、か弱い体にとってよいわけではありません。それだからこそ防ぐことはむつかしく悲嘆を招きやすいのです。もしいつも、ご幼少のとき綿入れをそれほど厚くなさらなければ、必ずやみな金石にも比すべき本性を保たれ、寿命は南山にも匹敵いたしましょう。」帝の返書、「そもそも忠義の至高なる者は文辞がねんごろであり、愛情の甚大な者は言葉が深い。君はすでに思慮を労したうえに、再三手筆のたよりをくれた。喜びははかりしれぬものがある。世嗣がまだ立てられないために、君の心配の種となっている。つつしんで最上の教えを受け入れ、よきいましめを聞こうと思う。」

228年、逝去した。子の王粛が後を継いだ。それより以前、文帝は王朗の領地を分割して、一子を列候にとりたてたが、王朗は願い出て兄の子王詳をとりたててもらった。


逸話

王朗のもとの名は厳であったが、のちに朗と改名した。

王朗の『家伝』にいう。王朗は若いころ沛国の名士劉陽と交わりを結んだ。劉陽は県令となったが、三十歳でなくなった。そのため後世にあまり知られていない。そのむかし、劉陽は漢王室が次第に衰微する中にあって、曹操が雄才を抱いていることを知り、漢にとって頭痛のたねになるのを心配し、心中彼を除こうと思ったが、事はうまくいかなかった。曹操が高い身分になると、劉陽の嗣子に対する追及はきわめて厳しかった。その子は追いつめられてあわてたが、逃げ隠れする場所がなかった。劉陽の親戚旧知は多かったが、かくまう勇気のある者はない。王朗はそこで、何年にもわたって手もとにおいてやった。会稽から帰還してからは、さらにたびたび申し開きをしてやった。曹操は長年のののちやっと彼を許した。劉陽は一家はおかげで無事であった。

『魏略』にいう。曹操は会議への出席を要請し、王朗をからかっていた、「君が昔会稽にいたころ、米のめしを節約したそうだが、とてもまねはできなかったな。」王朗は仰ぎみて歎息していった、「ほどよい態度にあうことはむつかしい。」曹操は訊ねた、「何だって。」王朗は、「私の昔の態度ごときは、節約すべきでないのに節約したのです。明公の今日の態度ごときは、節約すべきなのに節約しないのです。」曹操は、孫権が臣と称して貢物を送ってきたことについて、王朗に意見を求めた。王朗は答えた、「孫権の先の文書では、自身でえびすを討伐したといいのがれして先の過失をつくろい、後の上奏では臣と称して二心をもたないことを明らかにしております。牙をもつ獣は膝を折りまげ、言葉をしゃべる鳥は歓びを告げ、かがやく真珠、南方の黄金、遠方の珍奇な品は必ず届けられます。真情は文辞にあらわれ、効験は勲功に示されます。三江五湖は魏に統治され、西呉東越はわが国民に変わります。エン、郢が陥落したにち、荊門は自然と開くでしょう。巴・蜀を席巻すれば、状勢はすでに決まります。重なる慶事が続くでしょう。聖旨をうけたまわった日には、手を打ち拍子をとりました。心にたまったことを、言葉に表現できなかったものですから。」

『王朗集』に、王朗が大理であったとき、主簿だった趙郡の張登について述べた上奏が載っている、「昔、本県の主簿であったとき、黒山の賊が郡を包囲した事件にあいました。張登は県長の王儁とともに役人・兵士七十二人をひきつれ、ただちに救援にかけつけ、賊と交戦いたしました。役人・兵士はちりぢりになって逃走し、王儁はほとんど殺されるところでしたが、張登は一人の賊と格闘して、王儁の命を救いました。また守長の夏逸が督郵から無実の罪に陥れられたとき、張登は拷問を引き受け、夏逸の罪を正しく処理させました。二人の上官を助けた道義は、よろしく顕彰すべきです。」太祖は先にやらなければならないことが多かったので、抜擢して官位につける余裕はなかった。黄初の初年に至って、王朗はまたも大尉の鍾繇と連名で上奏して申しあげ、あわせて張登の職務における勤労ぶりを称揚いた。詔勅にいわく、「張登の忠義は顕著であり、職務においては功労がある。官名官位はいやしいとはいえ、誠実さはよろそく顕彰すべきである。宮中の食膳は親近の任務であり、この役人に当らせるのが適当である。今、張登をもって太官令とする。」

そのむかし、建安の末年、孫権ははじめて使者を派遣し、藩国と称し、劉備と戦いを交えた。詔勅により、「軍を起し呉と協力して蜀をとるべきかどうか」と発議された。王朗の意見、「天子の軍は、華山・泰山より重みのあるものです。実際、じっとして天威をかがやかせ、動かざること山の如くあるべきです。かりに孫権自身が蜀賊と対峙し、長時日にわたって格闘しましても、知恵は同等、力量は匹敵していますから、戦いはすぐに決着がつくというわけにはまいりますまい。軍が出動して形勢ができあがるのを待ちまして、そのあとで慎重な性格の将軍を選び、侵入した賊軍の強引な攻めを待ち受け、時機を見てのち動き、地形を選んでのち進めば、一度の軍事行動で片をつけられ、それ以上の行動は必要としないでしょう。今、孫権の軍はまだ動いておりません。さすれば、呉を援助する軍が先に征討するいわれはありません。そのうえいまは雨も多く、軍を進め衆を動かす時ではございません。」帝はその策を受け入れた。黄初年間、鵜カンが霊芝池に群れつどった。公卿に独行の君子を推挙するよう詔勅を下した。王朗は光禄大夫の楊彪を推薦したうえ、病気を理由に地位を楊彪に譲った。帝はそこで楊彪のために属官を設置し、三公の次の位につけてやり、詔勅を下した。「朕は君に賢人推挙を要求したが、まだそれを得ないのに、君はなんと病気と称している。賢者を獲得できなかっただけでなく、さらに賢者を失う路を開き、玉鉉の傾きをひどくすることになる。自室にあって発した言葉が悪ければ、君子に反撥されるものではないだろうが、君よ、どうかこれ以上いわないでくれ。」王朗はそこで官に復帰した。


評価

王朗は『易』『春秋』『孝経』『周官』を書き著わした。秦議・論・記はすべて世に伝わっている。

高い才能と広い学識をもっていたが、性質は厳格できちんとしており、憤慨家であった。大変礼儀正しく、謙虚でつつましかった。婚姻による親戚からの贈物もうけとることがなかった。つねに、恵み深いという評価がありながら貧窮者をあわれまない世間の連中を非難していた。したがって財物をほどこす場合、さし迫った者を救うことを優先した。