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十六章:赤壁の戦い 後編

演義では、周瑜は孔明の知略に恐れをし、いつか敵に回る前に殺そうと考えだすのでした。

そこで周瑜は孔明に、3日以内に十万本の弓矢が欲しいと要望するのです。これを断れば孔明の信頼を周囲から落とし、更には失敗すれば罪に問われ処分される難題でした。しかし孔明は了承し、明日までに用意すると断言したのでした。

孔明は早朝霧の中、数隻の無人の舟で曹操軍付近を航海しました。すると曹操軍は敵が攻めてきたとばかりに、視界の悪い中、大量の弓矢で攻撃をしかけてきます。数分後、孔明は陣地に戻り、周瑜に無人の舟にささった十万本の矢を出しだしたのでした。

ますます周瑜は孔明を恐れ、この戦いが終わるまでには殺害することを目論むのです。

曹操は、連合軍に密偵として蔡瑁の甥、蔡和、蔡中らを送りました。陣営の様子を逐一報告しており、周瑜らも既に周知しておりました。周瑜はこれをあべこべに利用することを決断するのです。

ある日、呉三代に渡って仕えている重臣、黄蓋(こうがい)が周瑜の作戦に突如反発し、百叩きの刑を受け、黄蓋はそれを口実に曹操軍に寝返ると伝えます。曹操は密偵の情報を信じ、受け入れました。これが有名な苦肉の策であります。

更に周瑜は、突然現れたホウ統を曹操に向かわせました。ホウ統は孔明と比せ、鳳雛として有名であり、曹操は快く迎え軍師としました。すっかり信じこんだ曹操は、船団を鎖で繋ぎ、敵に突破されないよう進言した連環の計を実施しました。

決戦の準備は着々と進むのですが、一つ心配ごとがありました。それは風。東南の風がふくことですべての計が達成するのでした。

悩む周瑜に孔明は「12月当日、私が東南の風を起こしましょう」

周瑜は驚き天変を自在に操ることに更に恐ろしく思うのです。しかし、実は孔明は天変を操るのではなく、その当日に風がふくことを既に予知していただけに過ぎず、操ることはできないのです。

決戦日、黄蓋が船団で曹操軍に寝返ろうとした瞬間、黄蓋の舟から突如、火で燃え上がります。曹操の船団に火が燃え移り、混乱するのでした。燃え移った舟を切り離そうとしましたが、連環の計による鎖で切り離すことができず、曹操はこの時、ホウ統が計ったことだと悟ります。しかし時既に遅く、東南の風がふき、曹操軍80万の船団はあっという間に火で包まれました。

周瑜の水軍は曹操軍を挟撃、陸上に逃げる曹操軍を呉の甘寧、韓当、丁奉、徐盛などが撃破、更に劉備軍の張飛、趙雲らも加勢して、曹操軍80万は壊滅するのでした。

演義では、曹操が華容道(かようどう)を通り抜け、逃げることを既に予知して、孔明が関羽に待ち伏せさせます。曹操は関羽に昔の恩義とよしみを話し、関羽はそれを想うばかり曹操を討てず、逃がしてしまうエピソードがあります。

また曹操は、郭嘉が生きていればこのような敗戦をすることはなかった・・・と嘆く有名なエピソードもあります。

こうして赤壁の戦いは孫権劉備の連合軍が勝利し、三国時代への足音がきこえてくるのでした。