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蜀漢滅亡

三国志入門


十八章:西涼の馬超

西涼とは、北西に位置する州の一つ(現在の敦煌)で、かつて董卓も領地として反乱軍討伐を行った辺境の地であります。

ここに漢の名将・馬援(ばえん)の末裔、馬騰が統治しており、異民族に恐れられておりました。特に長男の馬超は勇猛で、呂布に比せられる人物です。

馬騰は、かつての血判状に名を連ねた一人であり、曹操とは相反する勢力であったのですが、漢室に忠実であるため手が出せない状況下でした。

演義では曹操が劉備討伐の勅令を降し、馬騰は渋々これを受け入れ長安に入城するのでした。しかし、馬騰は曹操暗殺を企んでおり、それを露見して馬騰、馬休(ばきゅう)、馬鉄(ばてつ)らを捕らえ処刑してしまうのです。

それに烈火の如く怒り、馬超は父の義兄弟である韓遂(かんすい)と共に長安を攻め、あっという間に占拠してしまうのです。曹操はすぐに軍を引き連れ対峙しますが、勇猛な馬超に先手を打つことができません。

先鋒隊の曹洪(そうこう)、徐晃(じょこう)らを奇襲して破り、あるときは馬超の夜襲に敗走し、あるときは野営の陣を破壊され、あるときは勇猛果敢な西涼軍に抵抗する間もなく壊滅するなど、曹操は大きな痛手を負うのでした。

馬超は知略を持たず、配下のホウ悳(ほうとく)や韓遂らが参謀として協力していたのを見抜き、曹操は参謀の賈ク(かく)による離間の計により、馬超と韓遂の仲を裂くことにしました。馬超は次第に韓遂を怪しむようになり、曹操の偽手紙がきっかけで韓遂を襲うのでした。

韓遂は曹操に降り、戦力は分散され参謀を無くした馬超軍は賈クの計略に翻弄され壊滅、西涼に一時帰国するのです。曹操は長安に夏侯淵(かこうえん)、鍾ヨウ(しょうよう)らを置き、劉備、孫権らを警戒するために首都へ帰国するのです。

再び馬超は軍をまとめて長安へ攻め込みますが、夏侯淵は数度に渡り馬超を撃退し、留守を突いて西涼を占拠され、馬超は逃げる場所もなく、漢中の張魯(ちょうろ)を頼り敗走しました。夏侯淵は見せしめに馬超の一族、家族らを処刑してしまうのでした。

これにより曹操は更に領土を拡大して益々の勢力築くことになります。

馬超は、後の劉備軍に加わり五虎大将軍として活躍するのですが、さて、どのようにして劉備と馬超が出会うのでしょうか。また、馬超の甥で唯一残された一族の馬岱(ばたい)も劉備軍の下で生涯を捧げる忠義の士となるのです。