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二十章:劉備が蜀を統一

劉備が蜀に入り、劉璋軍と争って実に一年半が過ぎようとしていました。

軍師のホウ統が戦死し、劉備軍が不利になった状況で孔明は援軍として張飛、趙雲を派遣しました。孔明はまず各地の主城を奪うために、張飛に策を授けそれぞれ撃破し、劉璋軍の武将らを降伏させました。

劉璋軍の名将・張任(ちょうじん)を捕らえるため、演義では張任軍を誘き寄せ、挟撃して張任を捕らえることに成功します。劉璋軍の大半の武将らは劉備の人徳を知り降伏するのですが、張任は降伏することなく忠義を貫き処刑されるのでした。

劉璋は慌てて、敵対していた漢中の張魯にあべこべに援軍を求めるのでした。条件は、劉備軍を倒せば蜀の地を半分差し出すというものでした。

張魯は、客将として世話になっていた馬超に劉璋軍の援軍として派遣されます。孔明はこれを知り張飛に向かわせて対峙し、張飛vs馬超の一騎討ちなどでお互い譲らない一方、こう着状態になるのです。

劉備軍に加わった李恢(りかい)という人物が、馬超の陣営に向かい、本当の敵、志を説いて、説得するのでした。李恢は言いました。「父君は誰に討たれ、誰に一族らを殺されたか!君の本当の敵は曹操であろう!」

すると馬超は改心して劉備軍の傘下に加わることになったのです。

これにより劉璋は首都成都(せいと)を大軍で囲まれたことに降伏し、劉備がついに蜀を統一することになりました。

黄巾の乱からおよそ20年、苦労に苦労を重ね領地を持たず、ついに劉備は蜀を統一して、荊州を制覇することにより、一大勢力を手にするのでした。

また多くの武官、文官らが劉備に従い、その勢力は曹操と対等できる存在となったのでした。

曹操は勿論、呉の孫権もこれを面白くなく、赤壁以来一番得したのは劉備であったと云えました。

曹操は劉備に負けずと、漢中の張魯を攻めました。馬超の配下、ホウ悳(ほうとく)は、馬超が蜀に派遣される中、病気で動くことができず張魯の元にいたのでした。これが二人の運命を左右させ、ホウ悳は曹操に降伏し、曹操は漢中を制覇するのでした。

曹操が魏王を名乗ると、劉備も漢中王を名乗り、あくまでも曹操に対抗するのでした。そして、劉備は、五虎大将軍として、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲らを選出し、打倒曹操に尽力するのです。

さて、いよいよ中国大陸は三国に分かれ、ここからが三国志時代の突入となるのです。しかし、勢いますますの劉備にある大事件が起きるのでした。