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曹操と劉備の英雄論

三国志入門


二十四章:夷陵の戦い

劉備自ら率いる大軍63万(正史では6万)の勢いは止まらず、孫権からの和睦を簡単に断り、裏切り者の麋芳、傅士仁らを討ち取るのでした。
孫権は柱石であった呂蒙が病死し、誰がその勢いを止める人物がいるか悩むところでもあったのです。更に魏の曹仁軍は呉の劣勢を知るや、援軍を送らず、劉備の快進撃が続くのでした。

そんな中、呉では呂蒙の跡継ぎとして陸遜(りくそん)を指名したのです。陸遜は一介の書生に過ぎず、劉備は何の警戒もなく陸遜を恐れなったのでした。参謀の馬良は陸遜は周瑜、呂蒙に劣らない人物と提言しますが、焦りを隠せない劉備はそれを聞き入らなかったのです。劉備は、水軍の呉班、陳式を囮に攻め込み、劉備自ら呉の孫桓(そんかん)軍、朱桓(しゅかん)軍を攻め込み勝利目前としました。

陸遜は劉備軍をギリギリまで引き付けて、陣を堅く閉ざし様子を伺うかのように沈黙を保つのですが、それは誘い込むための罠だったのです。四方より、呉の蒋欽、呂範、朱然、朱桓らに火計で囲まれ退路を絶たれます。これにより劉備軍は大混乱を起こしてしまい、参謀の馬良や馮習、王甫、張南、傅彤らが戦死し、水軍の黄権は仕方なく魏に降伏してしまうのです。劉備は死を覚悟しましたが、江州より趙雲・馬忠の援軍により何とか助かり、白帝城へ退却するのでした。

この惨敗により数万の蜀兵が呉に投降し大逆転勝利を収めるのでした。なおこの戦いによって、蜀は完全に荊州掌握の糸口を失ったのでした。

諸葛亮はすぐさま江州に趙雲、李厳らで守りを固めて呉に備え、呉もまた魏の曹仁らを警戒して一時停戦となるのでした。魏呉不可侵条約とは云え、戦国時代において信用はできないと陸遜は察知し、その警戒は見事に的中するのです。曹丕は曹仁、曹休、曹真らに荊州を攻め込ませますが、呉の朱桓らの活躍により撃退され、更に魏軍では疫病が流行して退却を余儀なくされたのです。蜀魏からの攻防により、呉の陸遜はその名を天下に示し、かつての周瑜、呂蒙らと列せられるようになったのです。

演義では、諸葛亮が作った石兵八陣により陸遜は蜀に攻め入ることができず退却するのでした。更に、五虎将軍の一人、黄忠が呉の潘璋軍に攻め込み戦死するという場面も描かれております(正史では病死)。また、関興、張苞らが仇討ちとして呉の潘璋、馬忠らを討つがこれを創作であります。

蜀では白帝城に滞在していた劉備が心痛から病気を発し、伏せっていたのです。多くの将兵や有能な将を失ったことに心痛し、劉備は成都に帰らず留まっていたのでした。そして突如、劉備は明日を知れぬ緊急事態となり、諸葛亮は太子の劉禅、劉永、劉理、趙雲らを連れて白帝城へ急ぐのです。

三国時代を築き英雄として天下にその名を馳せた曹操の死、そして劉備・・・
一時代の幕が閉じようとしていたのです。