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曹操と劉備の英雄論

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三十五章:姜維孤軍奮戦

蜀は、魏の司馬氏台頭により政変した隙を狙おうと、降将の夏侯覇と共に北伐を興そうとしました。

暫くは重臣らの多くが反対し姜維の思惑通りには進まなかったのです。姜維は異民族の羌と共同して魏を攻めることを提案し、また以前の北伐が失敗したのは地理に乏しいことが理由だと説得、なんとか強行して北伐軍を興すのでした。

姜維は祈山(きざん)へ出向き、魏の司馬師、陳泰軍と対峙しました。しかし、共同作戦を行っていた羌族が援軍に現れず、更に陳泰軍に退路を絶たれて敗れてしまいます。

蜀内では姜維が内政に尽力せず軍事ばかり率先する姿に飽きれるものもいました。それを補っていたのが費イでした。費イは、蒋エンが病死し大将軍として内政をひっぱり、中心人物として活躍するのです。

正月、蜀では蒋エン、董允らが相次いで死に国内の支える人物がいなくなる中、費イも魏降将の郭循に刺殺されます。費イの跡に陳祇(ちんし)という人物が内政を支えるのですが、皇帝劉禅に嫌われ左遷されてしまうのでした。

姜維はなんとしても焦りを隠せず第二次北伐を敢行して、魏の郭淮、徐質らを討ち取ります。蜀も張嶷を失い、結果は北伐失敗に終わりました。

やがて蜀では宦官の黄皓(こうこう)が劉禅を堕落させてしまい、政治も腐敗していくのでした。

魏では司馬懿が本当に病で倒れ、息子らに魏を盛り立てるよう遺言を残して死去します。長男の司馬師が権力を握ることになります。

呉においてはついに長寿の孫権が崩御します。跡継ぎとして孫亮が皇帝に就きました。しかし内紛による派閥争いは耐えません。柱石であった陸遜は内紛による争いで弁護をしたため、流罪にされ憤死します。

やがて姜維は第三次、第四次、第五次と北伐を繰り返し、夏侯覇も失ってしまうのでした。主だった将も廖化、張翼らとなって蜀の国力の疲弊は限界だったのかもしれません。

同盟国の呉では、諸葛恪(諸葛瑾の子)が采配を奮い魏を攻めますが、歴史的大敗によりその罪を問われて一族処刑されるのでした。

ここ数十年、魏を討つ為の手段は年々弱体し、ついに姜維一人となってしまったのです。