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三国志入門


三十七章:蜀滅亡

蜀は滅亡の危機でした。まさに蜀には既に守りぬくだけの将兵が少なかったと云えます。

姜維は剣閣で鍾会軍を抑えてその勢いは衰えなかったのです。トウ艾、鍾会は長引くことを恐れて、トウ艾が別のルートを迂回し、鍾会が姜維を抑える作戦に変えてきたのです。

姜維はそれに気づかず、鍾会軍を睨みきかせていました。

トウ艾軍は絶壁をよじ登り迂回して綿竹(めんちく)に到着するのです。綿竹には諸葛亮の子・諸葛瞻が守っていたのです。諸葛瞻はトウ艾軍に必死に抵抗しましたが、大軍に囲まれて戦死してしまうのです。

更に諸葛瞻の子・諸葛尚も大軍の中で討ち死にし、綿竹を守っていた黄権の子・黄崇も戦死します。こうしてトウ艾は成都の目前まで迫りました。

蜀の劉禅は綿竹が陥落してから魏が迫っていることを知り、慌てて降伏を申し入れたのです。重臣らの中でこれを諌める者も少なく、あっけなく蜀は滅亡してしまうのでした。

劉備が蜀を建国しておよそ40年、漢朝再興も叶わずここで潰えるのでした。

その頃、姜維は蜀が降伏したことを知らず奮戦中でした。鍾会軍が撤退したと思い気や、成都より勅使が訪れ、蜀が滅亡したことを聞くや、泣きながら剣を岩に叩きつけて割るエピソードが残っております。

また、トウ艾が諸葛亮の墓を見つけた時、諸葛亮は霊として現れて蜀の民を殺すなという忠告を受けたという面白いお話もあります。

蜀滅亡により、関羽の子孫らは、かつて関羽に敗れ処刑された魏のホウ悳の子・ホウ会に根絶やしにされてしまったと記されております。

蜀の劉禅は安楽公に奉じられ洛陽に移し、泰平にうつつを抜かす無能な姿が残され、司馬昭は諸葛亮が生きていても蜀に安泰はなかったであろうと語っております。

263年の蜀滅亡から2年後、姜維は鍾会と計らってトウ艾を殺害して蜀復興を目指して反乱を企てますが、鍾会の副将・胡烈に裏切られて殺害されしまいます。

さて、残すところ次章で入門の物語は最後となりました。

魏、呉どちらが天下を制するのか・・・
それとも新しい時代への足跡が聞こえてくるのでしょうか。