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姓名 | 李傕 |
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字 | 稚然 |
生没年 | ? - 198年 |
所属 | 後漢 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 董卓残党軍をまとめたが董卓と同じく腐敗して成り下がった将軍 |
主な関連人物 | 董卓 郭汜 |
関連年表 |
192年 車騎将軍・開府・領司隷校尉・仮節・池陽侯となる |
李傕、稚然といい、涼州北地郡の人である。子は李式、甥は李利・李暹・胡封(姉妹の子)、従弟は李応・李桓らがいる。
192年、董卓の死によって支柱を失った李傕らは、賈詡の献策も用いて長安を攻撃し、これを陥落させた。李傕・郭汜・樊稠・張斉らは献帝に迫って高官となり、朝政をほしいままにした。董卓という巨魁がたおれたのも束の間で、董卓もどきが輩出した。
このとき、多年にわたり隴西で勢力を揮っていた馬騰・韓遂が、長安に軍勢を率いてやってきた。馬騰・韓遂らは、中央の混乱に乗じて旨味の分け前に与ろうという魂胆あってのことだった。馬騰は征西将軍に任じられ、韓遂は鎮西将軍に任じられて涼州に戻った。
侍中の馬宇は諫議大夫种邵、左中郎劉範と共謀し、李傕・郭汜の誅滅を図った。馬騰に長安を攻撃させ、自分たちが内から呼応するというのであるが、計画は路顕し、馬宇らは殺され、馬騰は涼州に遁走した。
李傕らは兵を放って長安近辺で掠奪を働いた。そのため当時数十万戸を占めた人々は飢餓に苦しんでくらいあい、二年の間にほぼ死に絶えるという悲惨な有り様となった。この間、献帝は官中の馬を売った金や絹を、生計を立てられぬ公卿や貧民に下賜したが、李傕はそれさえも奪って自分のものとした。
やがて主導権争いを始め、李傕は樊稠が韓遂と通謀しているのではないかと疑って彼を殺した。
さらに李傕と郭汜は互いに猜疑心を抱くようになり、李傕は献帝を人質として陣営内に捕らえ置き、宮殿や役所の財物を全て奪い取った。
195年春、李傕、郭汜の二人は、長安市内で数ヶ月にわたって攻撃しあい、死者は万単位を数えた。
李傕は献帝を蔑ろにしていた。夏の盛りのある日、献帝は臣下の食料として穀物と牛の骨を要求した。「朝晩食事をさせているのに、どうして穀物が要るのか」と李傕は言い、腐った牛の骨しか与えなかった。人々は臭いを嗅ぐだけで食べられなかった。
また、李傕は献帝に拝謁する時は三振の刀を帯び、鞭と抜身の刀を持っていた。献帝の侍臣らは自分たちも武装して帝の周りを固めた。李傕はそれが不服だったが、ある人に、「軍中ではそれが国家の慣例になっています」と言われ、やっと気持ちをほぐした。
195年7月、李傕は張斉のなかだちで郭汜と和睦した。その隙に献帝は董承と、李傕に背いた楊奉に奉じられて長安を脱出、洛陽に向かった。李傕と郭汜はこれを悔いて追撃し、楊奉が招き寄せた白波賊の韓暹・胡才・李楽らとの間で大戦となった。しかし李傕らは大敗し、献帝を奪い返せなかった。
献帝の奪回に失敗した李傕・郭汜らは、ようやく落目となった。
198年、李傕は謁者僕射の裴茂・段煨の率いる軍に敗れ、三族とともに処刑された。享年不明。
董卓の死後は結束したといっても、李傕は所詮、無知で粗暴な人間の集まりに過ぎなかった。
董卓伝に引く『典略』には、二人の仲がこじれた原因として次のように語った。
まだ仲違いをしないころ、李傕はしばしば酒席を設けて郭汜を招き、時には泊めることもあった。郭汜の妻は、李傕が夫に婢妾を当てがいはしまいかと心配し、二人を離間させようと考えた。たまたま李傕から食物が贈られてきた。郭汜の妻はあらかじめ味噌で丸薬を作っておき、「外からの食物には注意しなくては」と言いつつ。それを摘み出して見せた。
そして「両雄並び立たずとか。私はあなたが李将軍を信頼しているのを心許なく思っておりました」と言った。ある日、李傕がまた郭汜を呼び、郭汜を大酔させた。妻の言葉を思い出した郭汜は、李傕が毒を盛ったのではないかと疑い、自ら糞を絞った汁を飲んで吐き出した。この結果、両者は不和となった。
『三国志演義』は、郭汜は妻に糞汁を飲まされたと脚色している。太尉楊彪は李傕・郭汜の離間を図り、自分の妻の口から郭汜の妻に、郭汜は李傕の妻と通じていると吹き込ませた。嫉妬深い郭汜の妻は逆上した。例によって李傕に招かれて大酔した郭汜は、帰宅後、腹痛に見舞われた。郭汜の妻はここぞとばかりに夫に糞汁を飲ませ、思いきり吐かせた。
李傕は邪教に傾倒し、いつも巫女を侍らせ邪神を祭り、牛や羊を捧げていたという。大司馬に任じられた時も、李傕は巫女に褒美を与えていた。