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姓名 | 朱儁 |
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字 | 公偉 |
生没年 | ? - 195年 |
所属 | 後漢 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 黄巾平定に尽力し、朝廷のために節義を貫いた文武の将軍 |
主な関連人物 | 董卓 郭汜 皇甫嵩 |
関連年表 |
178年 交阯刺史となる 183年 右中朗将・仮節となる 184年 右車騎将軍となる 190年 太僕となる 193年 大尉となる |
朱儁は字を公偉といい、会稽郡上虞の人である。子は朱符、朱皓がいる。
若い頃から学問を好み、172年頃には孝廉に推挙された。
当時、交阯太守が組んで叛乱し、所在の郡県を攻破した。178年、朱儁は交阯刺史に任じられて五千の兵でこれを討ち、1カ月で平定した。この功で都亭候に封じられ、微されて諌議大夫となった。
183年2月、黄巾の乱が起きると、朱儁は才略を買われて右中朗将・仮節に任じられ、討伐を命じられた。出発に際して、朱儁は上表して孫堅を佐軍司馬に任じた。孫堅は郷里の若者や淮水・泗水の精兵千余人を糾合して朱儁に随従した。
朱儁と左中郎将皇甫嵩は、それぞれ一軍を率いて頴川軍の黄巾の討伐に向かった。朱儁が最初に黄巾軍と遭遇して敗れたが、そこに皇甫嵩が救助に駆けつけ、共に長社の県城に拠った。包囲した波才の軍を皇甫嵩は焼討ちして大勝、この勝ちに乗じて官軍は頴川・汝南・陳国三郡の叛乱を全て平定した。皇甫嵩は上奏して功を朱儁に帰したので、朱儁は西郷候に進封、鎮賊中朗将に昇進した。
張角の挙兵と同時に南陽の黄巾張曼成は「神上使」と称し、数万の衆を擁して蜂起した。彼は南陽太守褚頁を殺害、群治の宛城にそのまま百日余り陣を布いた。6月、後任の太守秦頡が張曼成を誅戮したが、賊軍は新たに趙弘を首領にして抵抗をつづけ、この間に勢力は十余万人に膨れ上がった。
朱儁は荊州刺史徐璆と秦頡の兵、併せて一万八千人で趙弘らが籠もる宛城を包囲したが、6月から8月に至っても破れなかった。有司は朱儁を召還しようとしたが、司空の張温は、敵陣に臨んで将を易えるのは兵家の忌むところだと庇い、もう少し日数を与えるべきだと進言した。
中央の動きが伝わったのか、朱儁は遮二無二攻め立てて、ついに趙弘を斬殺して上虞候に封じられた。ところが残党は今度韓忠という者を立て、なおも抵抗をつづけた。朱儁は高い士山を築いて城内の様子を遠望出来るようにした。そして陽動作戦を用いて敵を右往左往させ、防備が手薄になったところから城内に突入した。驚いた黄巾は降伏を申し入れた。議郎の蔡邕・司馬の張超は、朱儁に受けるように勧めたが、彼は「彼奴らは有利と見れば戦い、不利と見れば降伏する。今、もしこれを受け入れれば、将来また逆意を持つであろう」と拒んだ。
赦されないと知った賊は必死になって戦い、戦況はなかなか進展しなかった。そこで朱儁は包囲を緩めてわざと隙を見せ、韓忠らが撃って出たところを襲って一万余りの首を奪う大勝利を得た。韓忠は敵し難しいと知って降伏したが、怒りを積もらせていた秦頡が容赦せずに殺害した。残党はこれを見て不安になり、今度は夏育とという者を立て、再び宛城に拠って抵抗を続けた。朱儁は賊徒を急攻し、逃走する夏育を南陽群の西顎県に追って斬り、さらに一万余りの首級を挙げた。ここにおいて、さすがの黄巾も散り散りになった。恐らく9月か10月のことであった。
184年春、朱儁は右車騎将軍に昇進した。洛陽に凱旋して光禄大夫となり、銭唐候に封じられ、増邑五千戸、さらに特進が加官された。母の喪に服していったん官を辞したが、再び仕えて諸官職を歴任した後、河南尹として京師の防衛に当たった。
189年、董卓が洛陽に入って朝政を一手に握り、自ら相国となって威権をほしいままにした。董卓は朱儁に会うと、外面は親しげにしたが、内心では忌み嫌った。朱儁もそれと察して、ひそかに警戒を怠らなかった。
190年、関東の諸候が董卓討伐の兵を挙げた。董卓は洛陽から長安に遷都しようと諮ったが、朱儁はその都度反対して彼の意見を封じた。董卓は朱儁を憚っていたが、その名声を利用したいと考え、上表して太僕に任じ、自分の副官にしようとした。朱儁は任命の沙汰が下っても受けず、「遷都すれば必ず天下の期待に背き、山東の叛乱者の結束を固めることとなりましょう。わたくしにはそれがいいと思えません」と言った。有司は「君に官職を授けようというのを断り、問われもしない遷都の問題に意見を述べるのは何故か」と咎めた。朱儁は「相国の副官の人は臣のよく堪えるところではなく、遷都の問題は臣が気懸かりにしていることです。臣が堪えられないところを辞退し、気懸かりなところを述べるのは、臣がなさねばならぬことです」と答えた。有司はさらに「遷都の計画はもともと無く、たとえあるとしてもまだ発布されていない。どこから聞いたのか」と問うた。朱儁は「相国董公が臣にそう申された」と答えた。有司は彼を屈服させられず、朝廷の人々は彼の剛直さを称賛した。
董卓が殺された翌年の193年、朱儁は周忠に代わって大尉となった。董卓の死後、その部将李傕・郭汜らが長安に入って朝政を専らにしたが、195年、両者は反目して李傕は献帝を、郭汜は公卿を人質にして争った。郭汜に捕らえられた朱儁は、剛直な性格ゆえにその屈辱に堪えられず、病を発して亡くなった。享年不明。
韋毅が太守の時代に郡に仕えるようになり、尹端が太守の時代には主簿となった。尹端は賊の許昭の討伐に失敗し、揚州刺史の上奏により死刑にされそうになるが、朱儁は密かに京師に行き、役人に賄賂を贈り、上奏文の内容を訂正させて尹端は流刑に減刑された。尹端は刑を減じられたことを喜んだものの、誰の仕業によるものかはとうとう分からなかった。
孫堅が史上に初登場したのは、朱儁の軍に随徒した時である。宛城の攻撃に際しては真っ先に城壁を登り、兵士がこれにつづき、力戦して大勝した。朱儁は孫堅の活躍を詳しく上奏、彼は功によって別部司馬に任じられた。
幼い時は早くして父を亡くしたため貧しく、母が内職をして生活を支えた。親孝行で評判となり、義を好み財に執着しなかった。才略を持ち、学問にも通じ、剛直で称賛されていた。