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姓名 | 盧植 |
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字 | 子幹 |
生没年 | ? - 192年 |
所属 | 後漢 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 剛毅で節義を持って学問を熟し、董卓と対立した人物 |
主な関連人物 | 董卓 公孫瓚 朱儁 |
関連年表 |
168年 博士となる 175年 九江太守となる 177年 侍中・尚書となる 184年 北中郎将・仮節、後に尚書となる |
盧植、字を子幹といい、涿郡涿県の人である。子は盧毓らがいる。
十五歳になった劉備が盧植の門を叩いたのは、同郷の縁があったからだった。劉備は公孫瓚と同門になり、後年、この縁を頼って盧植に身を寄せたことがあった。
盧植は学問を終えて郷里に帰り、人々に教授した。州郡からしばしば召されても応じなかった。
168年頃、博士として召されて初めて出仕した。
175年、九江蛮が叛乱を起こすと、盧植は文武の才ありとされて九江太守に任じられた。蛮夷は帰服したが、彼は病のために官を去った。その間に『尚書章句』『礼記解詁』などを著した。
再び出仕して、廬江太守となって南夷の叛乱を鎮圧し、しばらくして侍中、尚書へと累進した。東観で馬日磾・蔡邕・楊彪・韓説らとともに、五経の校訂や漢紀の編纂にも携わった。
184年2月、張角を首魁とする黄巾の賊が、各地で一斉に蜂起した。皇甫嵩、朱儁らが潁川郡をまずめざしたのに対し、盧植は北中郎将・仮節に任じられ、護烏丸中郎将宗員の本拠地鉅鹿郡に向かった。
盧植らは賊師張角を連破、首級一万余人の戦果を挙げた。張角は逃走して、鉅鹿郡治の東南のところにある広宗に立て籠もった。盧植は城の周囲に外囲を築いた。盧植は部下に命じて雲梯を作らせ、城内を俯瞰し、弓弩を発射する準備を整えた。後は屈強な兵士を選抜するだけで良かった。
この時、霊帝は小黄門の左豊を派遣して各地の情勢を視察させていた。盧植の陣にも訪れ、ある人は賄賂を与えるよう勧めたが、これを拒否した。怒った左豊は都に帰って霊帝に諫言した。このため、盧植は監車で徴還されてしまった。
中郎将張均は上書して、「張角が乱を起こせたのは、中常侍が重ねてきた悪行に怒った民衆の支持があったからです。彼らをさらし首にして天下に謝罪すれば、兵乱はたちどころ収まりましょう」と進言したが、聞き入れられず、殺害されてしまった。
後に幸いして、盧植は死罪を減じられて、免官されるだけで済んだ。
黄巾の乱が平定されると、皇甫嵩の取り計らいで盧植は尚書として復帰した。
189年、大将軍何進は宦官誅滅計画が漏れて殺され、宦官は袁紹によって皆殺しにされた。宦官張譲、段珪らは少帝を脅して人質とし、洛陽の東北の小平津という黄河の渡し場まで逃走した。これを迫った盧植が剣をとって張譲らを叱責すると、彼らは黄河に身を投げて自殺した。
何進が召し寄せた董卓が洛陽に入り、袁紹、曹操らを追い出して、朝政を一手に握った。自ら相国に就いた董卓は、少帝を廃して別に帝を立てようと群臣に諮った。誰もが董卓を恐れて黙っている中で、盧植は独り反対した。董卓は怒って席を蹴って去り、盧植を誅殺しようとしたが、侍中の蔡邕の説得があって取りやめた。
190年、けっきょく董卓は少帝を殺して弟の劉協を即位させた。
その後、盧植は老齢と病気を理由に引退し、上谷郡の軍都山に隠栖して亡くなった。享年不明。
盧植は身長八尺二寸の偉丈夫で、音声は鐘のように大きかったという。
また剛毅で大きな節義を持ち、常に済世の志を持っていた。
師の馬融は古文・今文の学に通じ、詳しく研究したが、章句にはあまり拘泥しなかった。馬融は外戚で資産があり、いつも庭に女を並べて歌舞を演じさせた。盧植は長期の勉学の間、一度も目を向けなかったので、馬融はこれを尊敬した。
皇甫嵩が黄巾平定するに及んで、彼は盧植の戦いの方略を称揚し、その謀略を用いたお陰で自分は成功したと語った。
207年、曹操が柳城烏丸を征伐しようと涿県を過ぎたとき、当地の太守に令して「故北中郎将盧植は名を海内に著し、学は儒宗であり、士の模範であった。彼こそ国家の柱石である。この州にきて、その余風がなおあることに感心した」と言い、墳墓を清掃させ、また供物を届けて、顕彰した。
『三国志演義』では、黄巾の乱討伐の将軍として登場。かつての教え子で義勇軍を率いる劉備と再会し、劉備が「先生」と呼んで尊敬している様子が描写されている。宦官の讒言で陥れられて、囚人車で都に護送される場面では、行き会わせた劉備らが驚き、張飛が力尽くで救おうとするのを叱咤して止めるなどの見せ場がある。後に史実通り朝臣として復帰し、董卓の専横に反対し引退。劉備三兄弟との再会を果たす事はないまま、物語から姿を消す。