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姓名 | 鄭泰 |
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字 | 公業 |
生没年 | 生没年不詳 |
所属 | 後漢 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 董卓の暴虐を見抜き、知謀に長けて恐れられた人物 |
主な関連人物 | 董卓 何進 袁術 |
関連年表 |
189年 尚書侍郎・奉車都尉となる 191年 議郎となる |
鄭泰、字を公業といい、河南郡開封県の人である。代々、儒学者の家の子で、高祖父鄭衆、さらに鄭衆の父鄭興も学者として名が高かった。弟は鄭渾、子は鄭袤がいる。
孝廉に推挙され、三府や宮中からも召されたが、みな応じなかった。
霊帝が死去すると、皇太后の兄何進が輔政し、四方の名士を微した時、鄭泰は尚書侍郎となり、奉車都尉を加官された。
何進は宦官を誅滅するために、董卓を召し寄せてその軍事力を借りようとした。鄭泰は「董卓は残忍で道義心を缺き、飽くなき野望を抱いています。もし彼に宦官討滅の大事を委ねれば、彼は野望をほしいままにして朝廷を危地に陥れましょう。明公の威徳と宰相の貴責に拠って、独断で大事を結構なさるべきです」と諌めたが、何進は聞き入れなかった。鄭泰は彼を見限って官を棄てて去った。
何進は宦官に先を越されて殺害された。四月に大将軍となって僅か四ヶ月後の死である。外部の将軍を洛陽に呼び寄せて協力させるという何進の無謀な計画を、曹操は嗤ったが、彼ばかりではなく、鄭泰や韓遂らも失敗を予測していた。
鄭泰が懸念したとおり、董卓は朝政を専断し、少帝を廃して陳留王劉協を帝位に即けた。これに対して関東の諸将が義兵を挙げた。董卓は太兵を微発するために会議を催した。群僚は彼を畏れて誰も反対しなかった。
鄭泰は彼が強力になり、制御し難くなるのを懸念し「そもそも政治というものは、上に立つ者の道徳の有無に懸かっており、兵力の多寡に懸かっておりません」と言った。聞いた董卓は不機嫌になり、「それならば兵力は役に立たぬと言うのか」と糺した。人々はこれに聞き、鄭泰の身を慮って慄い恐れない者はいなかった。
鄭泰は自分の真意を巧みに韜晦して、「兵が無益と言うのではありません。山東に兵を加える必要がないからです」と答えた。理由として、諸侯たちとその兵は董卓の権謀と勇猛な西羌の兵に敵し難いし、彼らは情勢を観望するだけでまとまりを缺いているなど、十項目を列挙し、兵を微発して人民の動揺を招いてはならないと説得した。
董卓は微発を止め、鄭泰は将軍とし、諸軍を率いて関東を撃たせようとした。すると、ある人が、「鄭泰の智略は人より勝り、しかも関東と通謀しています。今、彼に兵馬を与えて仲間の所に行かせようとなさるのは、明公のために懸念致します」と言った。
董卓は鄭泰の兵馬を取り上げ、そのまま長安に留めて議郎に任命した。
後に鄭泰は荀攸・何顒らとともに董卓誅殺の計画を立てたが露顕したため、武関を通って脱出し、東に還った。
後将軍袁術は彼を揚州刺史としたが、鄭泰は着任の途次、亡くなった。享年42。
鄭泰は、若いころから才略と謀計に長じ、天下は今にも乱れると見て、諸方の豪傑たちとつきあった。家は富んでいて、四百頃の田地があったが、彼らとのつきあいで、常に食糧に不足していた。