しばゆう

司馬攸

字大猷 生没年248年 – 283年 所属晋

人望あつく後継に擬されながら、疎まれて散った賢王

能力値
統率 E
武力 E
知力 C
計略 E
政治 C
人望 B
関連年表
248年 司馬昭の次子として生まれる。母は王粛の娘・王元姫
— 子のない伯父・司馬師の養子となる
— 父が座を指して「これは桃符の座だ」と公言する
265年 兄・司馬炎が晋を建て、斉王に封じられる
— 清和平允の人柄と令名で、才望が兄をしのぐ
268年 母・王元姫が死に臨み、兄に慈愛と和がないことを憂える
— 皇太子の暗愚により、朝野の期待が司馬攸へ集まる
282年 荀勖の進言により、封国の斉へ赴く詔が下る
283年 母の陵を守ることを願うが許されず、病中も出発を催促される
283年 遣わされた医者たちが帝の意に迎合し「病なし」と答え続ける
283年 血を吐いて薨じる(三十六歳)。馮紞は「社稷の福」と言う
301年 子の司馬冏が挙兵し、八王の乱の中心人物となる

略歴

司馬攸、字を大猷といい、司馬昭の次子で、晋の武帝・司馬炎の同母弟である。正始九年(248年)の生まれ。母は王粛の娘・王元姫。伯父の司馬師に子がなかったため、その養子となった。 幼いころから聡明で、清和・平允——穏やかで公平な人柄と評された。賢者を親しみ、人に施すことを好んだ。父・司馬昭はこの次子が兄の司馬師に似ていることを喜んで特に愛し、家督を継がせるつもりであることを人前で口にしていたという。 結局、何曾・賈充・裴秀らが長子相続を説いて、家督は兄の司馬炎に定まった。だが司馬攸の令名は、なお兄をしのぐほど高かった。 泰始元年(265年)に晋が建つと、司馬攸は斉王に封じられ、政務にも見識を示した。母・王元姫は死に臨んで、兄が弟に優しくないことを気がかりとして言い残している。 やがてその懸念が形を取る。兄・武帝の皇太子(のちの恵帝)があまりに暗愚であったため、朝野はこぞって「賢明な斉王こそ次の帝位にふさわしい」と望むようになったのである。 これを好機と見たのが、中書監の荀勖と侍中の馮紞であった。二人は武帝に、朝廷の人心がすでに斉王へ傾いていることを説き、司馬攸を都から遠ざけるよう勧めた。 太康三年(282年)、司馬攸に封国の斉へ赴く命が下る。司馬攸は母の陵を守ることを願って辞退しようとしたが、許されなかった。病が重くなってもなお出発を催促され、翌年、憤りのうちに血を吐いて世を去った。三十六歳であった。

逸話

司馬攸を殺したのは、人望であった。そしてその死に方は、宮廷政治の酷薄さをこれ以上ないほど示している。 発端は、父の言葉にさかのぼる。司馬昭は次子が兄の司馬師に似ていることを喜び、座を指して「これは桃符の座だ」と口にしていた。桃符とは司馬攸の幼名である。晋王の位はこの子に継がせる——父がそう公言していたという事実は、長子の司馬炎が帝位に即いたあとも消えなかった。 母・王元姫の遺言も、不吉なほど正確であった。死に臨んだ王元姫は司馬炎にこう言い残している——「桃符は性が急であり、おまえは兄でありながら慈愛と和がない。わたしが起き上がれなければ、きっとわたしの意に添うことはあるまい。それがわたしの恨みである」。兄が弟を可愛がらないことを、母は死ぬまで案じていた。 やがて皇太子の暗愚が隠しようもなくなると、朝野の期待は司馬攸へ集まる。それを武帝の猜疑へ変えたのが、荀勖と馮紞であった。荀勖は武帝にこう吹き込んだ——「陛下が万歳のあと、太子は立てられません。百僚の内外がみな斉王に意を寄せているからです」。そして具体的な手まで授けた。「試みに斉王へ封国に還るよう詔してみられますよう」。 詔は下った。司馬攸は母の陵を守りたいと願って辞退を試みたが、許されない。 ここから先が、この一件の最も酷いところである。 陵廟に辞した司馬攸は、すでに容貌がやせ衰えていた。武帝は御医を遣わして診させた。ところが医者たちはみな帝の意に迎合し、「病はございません」と言ったのである。河南尹の向雄が「陛下の子弟は多いが、徳音ある者は少ない」と諫めたが、武帝は納れず、向雄は憤りのうちに死んだ。 病が重くなってもなお、出発は催促された。司馬攸は無理をして入朝し、辞去の挨拶をした。もとより容儀を整えることを欠かさぬ人であったから、苦しくても身を正したのだが、それがかえって衰えを際立たせた。武帝はなお信じず、また太医を遣わす。医者たちは、やはり「病はない」と答えた。 司馬攸は血を吐いて死んだ。太康四年(283年)、三十六歳であった。 武帝は喪に臨んで、哭することをやめられなかった。そこへ馮紞が傍らから声をかけた——「斉王は名が実に過ぎており、しかも天下が彼に帰しておりました。みずから薨じたのは、社稷の福でございます。陛下はなぜそれほど哀しまれるのですか」。武帝は涙を収めた。 そののち、武帝は「病はない」と言い続けた医者たちを誅している。 だが、この死は終わりではなかった。司馬攸の子・司馬冏は、父が非命に死んだことを忘れなかった。十八年後、斉王・司馬冏は兵を挙げて趙王・司馬倫を討ち、八王の乱の中心人物の一人となる。人望ゆえに疎まれて殺された賢王の恨みは、王朝を食い破る内乱の火種として残ったのである。

評価

司馬攸は、才徳と人望を兼ねそなえ、暗愚な甥に代わって帝位を望まれた賢王であった。もし彼が立っていれば、晋はやがて訪れる八王の乱の惨禍を免れたかもしれぬと、後世しばしば惜しまれた。 だが、その優れた資質と高い人望こそが、かえって兄・武帝の猜疑を招き、彼を死へと追いやった。徳あるがゆえに疎まれるという、宮廷の非情を体現した悲運の人である。

演義

小説『三国志演義』では、物語の終盤に近い時期の晋の宗室として、その名がわずかに現れる程度である。 史実における、人望ゆえに疎まれて散った賢王としての悲運は、統一後の晋がはらむ不安を暗示している。
本格三国志RPG

あなただけの武将で乱世へ。修行で鍛え、仲間を集め、城を取り、天下統一を目指す。

修行 登用 侵攻 天下図
ブラウザで無料・登録して今すぐ遊べる
新規登録して始める ログイン 登録は無料・すぐ始められます
情勢 第3期が満了したが、覇者は現れなかった…… 第2期が満了したが、覇者は現れなかった…… 第1期が満了したが、覇者は現れなかった……
三国志入門 初心者向けにやさしく解説する連載 入門を読む 三国志 歴史年表 184〜280年を「演義」と「正史」で読む 年表を見る
法人アカウント

あなたの記事を、三国志ファンへ

法人アカウントを取得すると、三國志.JP に記事を投稿できます。三国志に関心の高い読者に、あなたの記事を届けられます。

晋・統率ランキング

お知らせ

現在お知らせはありません。