かじゅう

賈充

字公閭 生没年217年 – 282年 所属晋

曹髦弑殺の汚れ役を担い、晋の建国を支えた権臣

能力値
統率 E
武力 E
知力 C
計略 C
政治 C
人望 E
関連年表
217年 魏の豫州刺史・賈逵が晩年に得た子として生まれる
250年代 司馬氏に接近し、その腹心となる
257年 諸葛誕の意向を探り、「卿は賈豫州の子ではないか」と面罵される
257年 司馬昭に「召さねば事は遅れて禍は大きい」と報じる
260年 曹髦の出撃に際し「おまえたちを養ってきたのは今日のためだ」と成済に命じる
260年 陳泰が「賈充を腰斬にすれば天下に謝せる」と述べるが、罰せられず
265年 晋の建国に大功を立て、要職を歴任する
268年 『泰始律令』の編纂を主導する(唐律に続く律令体系の礎)
279年 呉征伐に反対しながら、大都督として全軍を統べる
280年 撤兵を上表し「張華を腰斬にしても天下に謝するに足りぬ」と述べる
280年 降った孫晧に「君を弑する者にはこの刑を加えるのです」と返され黙る
282年 没する(六十六歳)。諡をめぐり秦秀が「荒公」を主張する

略歴

賈充、字を公閭といい、平陽郡襄陵県の人である。建安二十二年(217年)の生まれ。 父は魏の豫州刺史・賈逵。曹休が石亭で敗れたときこれを救い、忠節をもって鳴った名臣である。長く子がなく、晩年にようやく得たのが賈充であった。のちに王淩が司馬懿に屈して護送される途上、賈逵の廟の前で「賈梁道よ、王淩はまことに魏に忠なる臣であった」と叫んで死んだことを思えば、その賈逵の子が辿った道は皮肉と言うほかない。 賈充は早くから司馬氏に接近し、その最も信頼の厚い腹心となった。甘露二年(257年)、司馬昭は賈充を遣わして鎮東大将軍・諸葛誕の意向を探らせた。このとき賈充が「洛陽の諸賢はみな禅譲を願っています。君はどう思われますか」と水を向けると、諸葛誕は声を厲しくして斥けた。帰った賈充は司馬昭に「諸葛誕は民望が帰している。いま召せば必ず来ないが、禍は小さい。召さねば事は遅れて禍は大きい」と報じ、その言のとおり諸葛誕は召還を拒んで挙兵し、滅んだ。 甘露五年(260年)、傀儡の地位に甘んじなかった魏帝・曹髦が、みずから兵を率いて司馬昭を討とうと宮中を出た。南闕の下でこれを迎え撃つ現場を指揮していたのが、中護軍の賈充である。帝が自ら剣を振るうのを見て兵が退こうとしたとき、太子舍人の成済が賈充に問うた。「事は急です。どうすればよいのですか」。賈充は答えた——「おまえたちを養ってきたのは、まさに今日のためだ。今日のことについて、問うべきことなど何もない」。成済は進み出て帝を刺し、刃は背に抜けた。皇帝弑逆という前代未聞の役を、賈充が担ったのである。 世の非難をかわすため、手を下した成済兄弟に罪が着せられて誅されたが、命じた賈充が罰せられることはなかった。 以後も賈充は司馬昭・司馬炎父子を支え、泰始元年(265年)の晋の建国に大功を立てる。車騎将軍を経て司空・太尉といった要職を歴任し、とりわけ『泰始律令』の編纂を主導したことは、のちの唐律にまで続く律令体系の礎となった。 咸寧五年(279年)に始まる呉征伐では、使持節・仮黄鉞・大都督として全軍を統べた。もっとも賈充自身は、この出兵に最後まで反対し続けた人物であった。 太康三年(282年)に没した。六十六歳。娘の賈南風は皇太子(のちの恵帝)の妃となり、この女性がやがて八王の乱を招く元凶となっていく。

逸話

賈充の生涯には、同じ言葉が二度、立場を変えて現れる。 甘露五年(260年)、曹髦を弑した直後、動揺する朝廷を前に司馬昭は尚書左僕射の陳泰に問うた。「どうすれば世が静まるか」。陳泰はこう答えた——「ただ賈充を腰斬にすれば、わずかに天下に謝せましょう」。司馬昭は「その次を考えてくれ」と求めたが、陳泰は「わたしの申すのはこれだけです。それ以下は存じません」と退けた。司馬昭は賈充を斬らなかった。 それから二十年後、呉征伐の最中である。大都督として全軍を統べていた賈充は、もともとこの出兵に反対していた。戦況が進んでからも参軍を遣わして上表し、夏になれば江淮は湿気て疫病が起こる、諸軍を召し返して後の計を立てるべきだ、と説いた。そしてこう書き添えている——「征呉を主張した張華を腰斬にしても、天下に謝するには足りません」。 かつて自分の首を求められた言い回しを、今度は他人に向けて使ったのである。やがて呉は平定され、賈充は恥じ入って罪を請うたが、武帝は咎めなかった。 諸葛誕との応酬も、父の名を突かれた一幕として記憶に残る。禅譲について意向を探られた諸葛誕は、声を厲して斥けた——「卿は賈豫州の子ではないか。代々魏の恩を受けておきながら、どうして社稷を人に渡そうとするのか。もし洛陽に難あらば、わしは死をもって当たる」。賈充は黙り込むしかなかった。その賈豫州こと賈逵は、王淩が最期に廟の前で「魏に忠なる臣であった」と呼びかけた、まさにその人である。 太康元年(280年)、洛陽に降った孫晧との席でも、賈充は黙らされている。「君は南方で人の目をくり抜き、顔の皮を剥いだと聞くが、あれは何という刑か」と問うた賈充に、孫晧はこう答えた——「臣下でその君を弑し、奸邪で不忠な者には、この刑を加えるのです」。賈充は深く恥じ入り、孫晧は顔色ひとつ変えなかったという。亡国の君が、皇帝殺しの黒幕を一言で沈黙させた場面であった。 その家庭も、時代の渦に巻き込まれている。賈充の前妻は李豊の娘であった。嘉平六年(254年)、その李豊が司馬師を除いて夏侯玄を輔政に立てようと謀って誅されると、李氏は連座して流刑に処される。賈充は郭槐を後妻に迎えた。のち武帝が特に詔して左右二人の夫人を置くことを許したが、郭氏が激しく嫉んだため、賈充はついに李氏を迎え戻せなかった。母の柳氏が死に臨んで「李新婦はどこにいるのか」と尋ねたという話も伝わる。 跡継ぎを失った経緯は、『世説新語』が残している。黎民という男児が満一歳のころ、外から帰った賈充が、乳母の抱く子をあやした。それを遠くから見た郭氏は、賈充が乳母に情を通わせていると思い込み、ただちに乳母を殺した。子は泣き続けて他の乳を受けつけず、そのまま死んだという。賈充はついに男子を持たず、外孫の韓謐を養子として後嗣に立てた。 死後、その諡をめぐって公然と異を唱えた者がいる。太常博士の秦秀は「賈充は礼に背き情に溺れて大倫を乱した。『荒公』と諡すべきです」と議した。「荒」は悪諡である。武帝はこれを容れず、「武」と諡した。 そして賈充が残した最大のものは、律令でも爵位でもなかった。娘の賈南風が恵帝の皇后となり、やがて八王の乱の火を点ける。弑逆によって開かれた王朝は、弑逆を支えた男の娘によって内から崩れていった。

評価

賈充は、皇帝弑逆というもっとも汚れた役を引き受けることで司馬氏の簒奪を助け、晋の創業を支えた権臣である。その功により富貴を極めたが、曹髦を弑した一件は生涯ぬぐえぬ汚点として、後世きびしく指弾された。 有能な実務家である一方、権力のためには手段を選ばぬ佞臣でもあり、娘・賈南風を通じて晋の内乱の種をまいた点でも、その評価は暗い。

演義

小説『三国志演義』では、司馬昭の腹心として登場し、曹髦の出撃に際して成済に命じて帝を弑させる、悪役として描かれる。 「司馬昭の心は路人も知る」の場面で、簒奪の非道を体現する人物として、その名が刻まれている。
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