ちょうか

張華

字茂先 生没年232年 – 300年 所属晋

呉平定を推し、乱世の晋を支えた博学の名相

能力値
統率 E
武力 F
知力 B
計略 D
政治 B
人望 C
関連年表
232年 范陽郡方城県に生まれる。父は魏の漁陽太守・張平
— 幼くして父を失い、みずから羊を牧して暮らす
— 『鷦鷯賦』を阮籍が読み、「王佐の才である」と評する
270年代 羊祜の征呉策に、群臣の反対のなかただ一人賛成する
279年 度支尚書として兵糧輸送を算定し、戦略の決定にあずかる
280年 賈充の「張華を腰斬に」の奏を、武帝が「わが意である」と退ける
280年 呉が平定され、広武県侯に封じられる
— 後事を問われ「斉王攸に及ぶ者なし」と答え、幽州へ出される
— 幽州で、歴代服属しなかった東夷二十余国の朝貢を受ける
290年以降 恵帝の世に司空となり、賈南風の時代の朝廷を支える
— 賈后が太子を廃そうと図ったとき、固く反対して争う
300年 司馬倫に賈后の党として捕らえられ、一族もろとも殺される(六十九歳)
301年 斉王・司馬冏の輔政により爵を追復され、壮武と諡される

略歴

張華、字を茂先といい、范陽郡方城県の人である。太和六年(232年)の生まれ。父の張平は魏の漁陽太守であった。 幼くして父を失い、家は貧しかった。だが同郡の盧欽がその器量を見抜き、郷人の劉放も才を認めて娘を嫁がせている。まだ無名であったころに著した『鷦鷯賦』が世に認められ、張華の名は知られるようになった。 学識は並外れて広かった。経書から図緯・方術の書にまで通じ、のちに博物学の書『博物志』を著している。身分の低い士でも一つでも善があれば褒めそやして名を広めたという、人物を好む人でもあった。 武帝がひそかに羊祜と呉の平定を謀ったとき、群臣の多くはこれを不可とした。賛成したのは張華ただ一人であった。咸寧五年(279年)の大挙にあたっては度支尚書として兵糧輸送を計算し、戦略の決定にあずかった。 戦役の最中、賈充らは撤兵を求め、征呉を推した張華を罰せよとまで奏上する。だが武帝はこれを退けた。太康元年(280年)、呉は滅び、天下は統一された。張華は広武県侯に封じられる。 のち武帝が病み、後事を託せる者を問うたとき、張華は弟の斉王・司馬攸を推した。これが帝の意に沿わず、張華は持節・都督幽州諸軍事として都を離れる。幽州では新旧の民をよく撫し、辺境の諸国から朝貢を受けたと伝えられる。 武帝の没後、暗愚な恵帝の世となり、皇后・賈南風が実権を握る混乱の時代を迎えると、張華は司空として国政の中枢を担った。その学識と老練な手腕によって、しばらくのあいだ晋の秩序は保たれた。 だが永康元年(300年)、趙王・司馬倫の兵に捕らえられ、一族もろとも殺された。六十九歳であった。

逸話

張華の出発点は、羊飼いであった。 父を失ったあとの張華は、みずから羊を牧して暮らしていた。その境遇から世に出る足がかりになったのが、一篇の賦である。『鷦鷯賦』——鷦鷯はミソサザイ、小さく目立たぬ鳥で、自分をそれに託した作であった。これを読んだ阮籍が嘆じた。「王佐の才である」。竹林の七賢に数えられる人物の一言が、無名の若者の名を世に出した。 その学識の広さを伝える話も残っている。書物を愛し、住まいを移すときには蔵書を三十台の車に積んだ。経書から図緯・方術の書まで読み尽くし、『博物志』という博物学の書を残している。身分の低い士でも一つでも善いところがあれば、嘆賞して名を広めてやったという。 生涯で最大の賭けは、呉の平定であった。武帝が羊祜とひそかに征呉を謀ったとき、群臣の多くは不可と唱えた。賛成したのは張華ただ一人である。そして大挙が決まると、度支尚書として兵糧輸送の算定にあたった。 戦役の途中、賈充らは撤兵を求め、征呉を推した張華を腰斬にせよとまで奏上した。このとき武帝が返した言葉が、張華の立場を物語っている——「これはわが意である。張華はただわしと同じだっただけだ」。帝自身が、責めは自分にあると明言して庇ったのである。ほどなく呉は滅び、天下は統一された。 もっとも、張華はその明晰さによって都を離れることにもなった。武帝が病み、「後事を託せる者は誰か」と問うたときの答えがこうであった——「明徳にして至親なること、斉王攸に及ぶ者はありません」。暗愚な太子ではなく弟の司馬攸に託せ、という進言である。これは武帝が最も聞きたくない答えであり、張華は持節・都督幽州諸軍事として外へ出された。 その幽州での治績も記しておきたい。新旧の民を撫して戎と夏が懐き、州を去ること四千余里、歴代一度も服属したことのなかった東夷の二十余国が、そろって使者を送って朝貢してきたという。 恵帝の世に戻った張華は、司空として賈南風の時代の朝廷を切り回した。賈后が太子を廃そうと図ったときには、固く反対して争っている。 永康元年(300年)、趙王・司馬倫と孫秀が賈后を廃すると、張華は賈后の党として捕らえられた。賈后の太子廃位に抗った人物が、賈后の一味として殺されることになったのである。 最期の言葉が残っている——「臣は先帝の老臣である。心中は丹のごとし。臣は死を惜しむのではない。王室の難を懼れ、禍の測りがたきを懼れるのだ」。六十九歳。一族もろとも殺された。 そしてこの人の名誉を回復したのは、斉王・司馬冏であった。司馬倫が誅されて輔政の座についた司馬冏は、張華の爵邑を追復し、壮武と諡した。かつて張華が「後事を託すべきは斉王攸」と答えたその斉王の子が、十八年後に張華の名を戻したことになる。

評価

張華は、寒門から身を起こし、博学と実務の才によって晋の統一と、統一後の動乱期を支えた名宰相である。呉平定を推進した先見の明と、恵帝の暗愚な世にあって朝廷を切り回した手腕は、高く評価される。 学者にして政治家、そして乱世の重しであった張華の非業の死は、晋がいよいよ制御を失い、八王の乱の泥沼へと沈んでいく転機を告げるものであった。

演義

小説『三国志演義』では、終盤の呉征伐を推進する晋の臣として、その名がわずかに現れる。 史実における、統一を後押しし、動乱の晋を支えた博学の名相としての姿は、三国の物語のその後を担う人物として位置づけられる。
本格三国志RPG

あなただけの武将で乱世へ。修行で鍛え、仲間を集め、城を取り、天下統一を目指す。

修行 登用 侵攻 天下図
ブラウザで無料・登録して今すぐ遊べる
新規登録して始める ログイン 登録は無料・すぐ始められます
情勢 第3期が満了したが、覇者は現れなかった…… 第2期が満了したが、覇者は現れなかった…… 第1期が満了したが、覇者は現れなかった……
三国志入門 初心者向けにやさしく解説する連載 入門を読む 三国志 歴史年表 184〜280年を「演義」と「正史」で読む 年表を見る
法人アカウント

あなたの記事を、三国志ファンへ

法人アカウントを取得すると、三國志.JP に記事を投稿できます。三国志に関心の高い読者に、あなたの記事を届けられます。

晋・計略ランキング

お知らせ

現在お知らせはありません。