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後漢伝


孫堅 文台そんけん ぶんだい

姓名孫堅
文台
生没年155(156)年 - 191(192)年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号武烈皇帝
伝評小覇王・孫策、呉の皇帝・孫権の父
主な関連人物 孫権 孫策 孫静 
関連年表 171年 仮の尉に任命される
172年 許昌の乱を平定
184年 黄巾の乱で活躍する
186年 涼州の乱を平定
190年 董卓討伐に参加する
192年 黄祖と争い戦死する

略歴

孫堅、字を文台といい、呉郡の富春の人である。おそらく孫武(兵法家の子孫)の子孫なのであろうと正史にも記してあるが、事実不明である。若くして県の役人になった。

171年頃、年17のときのこと、父親といっしょに船に乗って銭唐に出かけた途中、海賊の胡玉らが商人から略奪しているのをみて、計略を案じ、周囲に官兵らいるように見せかけて合図をし、海賊らは捕えに来たと思い逃走した。孫堅は追いかけて一人討ち取って戻ってきた。父親は驚き、この件で孫堅は一躍有名となり、役所は孫堅を召寄せて、仮の尉(警察・軍事をつかさどる役目)に任命した。

172年、会稽の宗教反乱者である許昌が句章で反乱し、自ら陽明皇帝を名のり、その息子の許韶とともにあたりの県を煽動した。孫堅は軍の司馬として、武術に優れた者を慕って千余人を手に入れると、官兵と共同して反乱軍を撃破した。
これにより詔書が下され、丞(県令の補佐役)に任ぜられた。数年、各県を移り丞を歴任した。

184年、黄巾賊の首領の張角が魏郡で蜂起し、36万の信徒が一斉に反乱を起こした。漢の朝廷は皇甫嵩、朱儁らを派遣し討伐に向かわせた。朱儁は孫堅を部下として参軍させたいと願い、認められた。孫堅が奮戦して向かうところ敵がなかった。宛城の攻略では先じて城壁を乗り越え城内に侵入し、賊たちを討ち大勝利を収めた。
孫堅はこの功績で別部司馬の官に任ぜられた。

辺章と韓遂が涼州で反乱を起こし、186年に張温が討伐を命じられた。張温は奏上して孫堅を参謀の任につけて、長安まで軍を進めた。張温は勅令をもって董卓を召寄せたが、董卓はぐずぐずしたあと、やっと到着した。遅れた理由を責めると、董卓の対応は不遜であった。孫堅は三つの罪状を理由に董卓を殺すよう進言するが、張温は聞き入れなかった。
涼州の反乱軍は、大軍がまもなくやってくる聞いて、みな降伏した。孫堅は議郎の官を授けられた。

同年頃、長沙の反乱軍である区星が勝手に将軍を名のり、町々を攻撃していた。それに対処するため、孫堅は長沙太守に任ぜられた。孫堅はさまざまな計略を用いて、一ヶ月もならぬうちに区星らを討ち破った。周朝と郭石らも零陵・桂陽で反乱を起こしたので、陸康を救援して討伐を行い、三郡を平定した。漢の朝廷は功績を認め、孫堅を烏程侯に封じた。

霊帝が逝去すると、董卓が朝廷を牛耳り、京城でほしいままに横暴を行った。多くの州や郡ではそれぞれ義勇軍を組織して、董卓討伐を企てた。孫堅も兵を挙げて、途中、平素より礼に欠ける処遇を取ってきた荊州刺史の王叡を殺した。南陽まで軍を進めたが、討伐を邪魔する張咨を軍門に引きずり出して斬った。

魯陽まで軍を進めて袁術と会見すると、袁術は奏上して孫堅に破虜将軍・豫州刺史を兼任させた。

孫堅は梁の東部に軍営をおいたとき、董卓の大軍に攻撃を受けた。側近の祖茂を影武者として、董卓に追いかけさせた。孫堅は伏兵を用いて大いに董卓軍を破り、華雄らの首を斬って獄門にかけた。

孫堅と袁術の間を割く者があり、袁術は孫堅を疑って兵糧を送らなかった。孫堅は袁術の元へ駆けつけ、当否を論じて袁術を説得し、兵糧を手配させた。
董卓は孫堅が勇猛であるのをはばかって、将軍の李傕らを使者に立てて和睦を結びたいと申し入れたが、孫堅はこれを断り軍を進めた。董卓は、まもなくして遷都して関中に入り、洛陽内を焼き払った。孫堅は軍を進めて洛陽に入ると、皇帝たちの陵墓を修復し、董卓があばいた所を埋め直した。その後、軍を率いて魯陽に戻った。
その後、董卓討伐の義勇軍は解散し、袁紹と袁術の対立が激しくなったので、孫堅は帰国した。

192年、袁術は孫堅に命じて、荊州へ軍を進め、劉表に攻撃をかけさせた。劉表は黄祖を派遣し、孫堅を迎え撃った。孫堅は黄祖を討ち破り襄陽を包囲した。孫堅は、襄陽城外の硯山を単騎通行中、黄祖の軍卒が放った矢にあたって死んだ。享年37歳。


評価

陳寿は、勇敢にして剛毅であり、己の力のみを頼りとして身を立て、張温に董卓を討つ事を薦め、董卓によって暴かれた洛陽の山陵を修復した。忠義と勇壮さを備えた烈士であると評した。

同世代の公孫サンは、董卓を蹴散らし、御陵や霊廟を掃き清めた。その功績は計り知れないと評した。また、裴松之は、同時代、義をもって立った人々の中で、最も忠烈の志があったと記した。

『呉書』にいう。孫堅は洛陽に入り修復を行っていた際に、城南の井戸で玉璽を発見して密かに持ち帰ったとしている。裴松之の注釈によると、孫堅は、漢王朝のために義兵を起こした中でも、特に忠烈の名が高かった。しかし、もし彼が玉璽を手に入れ密かに隠し公表しなかったとあらば、王室に対して二心を持っていたことになり、どうして世間でいわれいたような忠烈の士であろう。呉の史官はこれを誉れとしようとしているなら、かえって孫堅の美徳を損ずることになるのが分かっていないのである、と記した。


見解

孫堅の没年と死因については、陳寿の『三国志』や裴松之が掲載した注釈、あるいは後の史書類によって異同が見られる。以下、列挙する。

孫破虜伝・注『典略』
没年の記載なし。劉表は籠城を決め込む一方で黄祖を城外に出し、徴兵をさせた。城へ戻る途中で孫堅と交戦し敗北。茂みに隠れていた兵士が追撃をしてきた孫堅を射殺。

孫破虜伝・注『英雄記』
初平4年(193年)正月7日に逝去。死因は劉表配下の呂公が伏せておいた伏兵に遭い、落石が頭部に当たったことによる。死因については『三国志演義』に採用された。なお、『演義』では初平2年11月に死亡したとする。

孫討逆伝・注『呉録』内、孫策の上表。
孫堅が死んだとき、孫策は17歳だったと記載している。

孫討逆伝内・裴松之の考察。
孫策の享年(26)から逆算すると、初平3年のとき孫策は18歳であったはずであり、『呉録』上表の記述と一致しない。また、『漢紀』と『呉歴』はそれぞれ初平2年(191年)に死亡したと記述しており、こちらが正しく本伝は間違っていると断定する。