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姓名 | 孫策 |
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字 | 伯符 |
生没年 | 175年 - 200年 |
所属 | 呉 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | 長沙桓王 |
伝評 | 美周郎と義兄弟、江東を統一した若き猛将 |
主な関連人物 | 孫権 孫堅 太史慈 周瑜 |
関連年表 |
192年 亡き孫堅の家督を継ぐ 194年 袁術より兵千人を借りる 196年 江東を制覇する 197年 袁術傘下から独立する 200年 許貢の食客に襲われ重傷に遭う |
呉郡の将軍である孫堅の長子、弟は呉の皇帝孫権である。
孫堅が義兵を挙げると母親を連れて舒(じょ)に移り住んだ。そこで周瑜と友情を結すんだ。
192年、孫堅が戦死すると遺骸を奉じて曲阿(きょくあ)に帰り葬った。その後、袁術の元へ身を寄せた。同年、袁術の命で廬江の陸康を破ったが、太守を劉勲に奪われ袁術に失望した。寿春で袁術と劉ヨウが争うと、孫策は孫賁を連れて劉ヨウ軍の張英と数年争った。
194年、袁術を説き兵千人を借りた。更に呉景を加勢させて江東制覇を計画した。朱治、黄蓋、韓当、程普らを配下にした。また、智謀の士である張昭、張紘を加えた。歴陽(れきよう)に到着する頃には兵が五千に増えていた。
195年、孫策は長江を渡り劉ヨウ軍の于糜、樊能らを攻めて兵糧と武器をすべて奪い取った。更に薛礼、サク融と交戦したが軍門を堅く閉じられた。軍を立て直した于糜、樊能らを再び交戦して破り、捕虜一万人を生け捕った。サク融の流れ矢に当たり負傷したが、孫策が死んだと噂を広めて伏兵を置き、薛礼、サク融らを激しく破ったが軍営の門は堅く閉じられ、そのままにして去った。劉ヨウ軍を破って曲阿を手に入れ、二万人の兵を得た。
196年、呉・会稽郡の許貢と王朗を攻めて勝利を収めた。許貢は厳白虎の元へ逃亡し、王朗は孫策に降伏した。丹陽で抵抗していた太史慈を破って部下にした。呉景・孫賁・朱治らをそれぞれ太守に任命した。
袁術が皇帝を僭称したので、手紙を送って非難し関係を絶った。曹操が奏上して孫策は討逆将軍・呉侯に封じられた。
197年、周瑜が袁術の配下であった魯粛を引き抜いて帰参した。孫策の拡大を恐れた袁術は、丹陽の祖郎を煽動させ反乱したが、程普・孫輔らでこれを収めた。呉景、孫賁らも袁術を見限って孫策に帰順した。
地方豪族らの反乱分子を排除するため、厳白虎らを討ち破り、許貢を降伏させた。中原を狙う磐石ため各宗教勢力を粛清した。許貢が朝廷に「孫策を項羽と比較する内容」を奏上したため、孫策は怒り許貢を殺害した。
199年、袁術が死去するとその勢力を吸収しようと曹操と争った。劉勲軍を計略で陥れ、その勢力すべてを吸収することに成功した。父の仇である黄祖を攻略して討ち破り、豫章を手に入れた。また、江東・江南を制覇して一大勢力となった。
200年、曹操が袁紹と争う中、曹操の本拠地である許昌攻略を計画するが、長江岸辺付近で、許貢の食客に襲われ深い傷を負った。重傷の孫策は張昭ら重臣を集めて、長子の孫紹が幼かったため、弟の孫権に跡を継がせ遺言を残し死去した。享年26歳。
陳寿は「孫策は傑出した英気を具え、その勇猛さと鋭敏さは並ぶ者がないほどであり、優れた人物を登用して用い、志は中国全土を圧倒するほどだった。しかし、孫策は軽佻で性急だったので、身を滅ぼしてしまった。また孫策が呉の国の基盤を作ったのに、孫権の孫策に対する尊敬が足りず、孫策の息子が侯爵にしかなれなかった。」と評している。
小説『三国志演義』では、その躍進のめざましさから「小覇王」と呼ばれている。最期については『捜神記』の記述をもとに、呉に現れた道士・于吉の霊により呪い殺されるという設定になっている。
于吉に民の人望が集まることを憎んだ孫策は、于吉に難題を押しつけるが、于吉はそれをことごとくこなしていったため、彼を殺害してしまう。その後、孫策は厳白虎の残党に襲われ負傷するが、たいした傷ではなかった。しかし、死んだはずの于吉がその傷を悪化させるように毎晩孫策の前に現れて、ついにその傷が深くなり危篤になったとしている。