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姓名 | 陸凱 |
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字 | 敬風 |
生没年 | 198年 - 269年 |
所属 | 呉 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 呉の後期を支えて、国を憂い、孫晧を諌めた人物 |
主な関連人物 | 孫権 丁奉 陸遜 陸抗 陸胤 |
関連年表 |
222年 建武都尉となる 238年 儋耳太守・建武校尉となる 255年 巴丘の督・偏将軍となる 258年 征北将軍・豫州牧となる 264年 鎮西大将軍・巴丘の都督となる 266年 左丞相となる |
陸凱、字を敬風といい、呉郡の人である。弟は陸胤、子は陸禕、丞相であった陸遜の一族に属し、その息子の世代にあたっている。
黄武初年、永興や諸曁県の長をつとめて、それぞれの任地で治績を挙げた。建武都尉の官を授けられ、兵士をあずかった。彼は、軍隊の指揮にあたることになっても、書物を手から離すことがなかった。特に『太玄経』を好んで、その内容を分析し敷演して、それによってうらないを行なったが、よく的中した。
赤烏年間、儋耳太守に任ぜられ、朱崖の討伐を行なって、不服従者たちを斬ったり捕虜にしたりして手柄を立て、昇進して建武校尉となった。
255年、山越の不服従民、陳毖の一味を零陵で討伐し、陳毖を斬って勝利を収め、巴丘の督、偏将軍の官を授けられ、都郷侯に封じられた。のちに武昌の右部督に転じた。
他の武将たちとともに、陸凱も寿春の戦役に参加し、その帰還のあと、盪魏将軍、綏遠将軍などの官を歴任した。
孫休が即位すると、従北将軍の官を授けられ、仮節を与えられて豫州の牧の職務を兼任した。
孫晧が即位すると、鎮西大将軍に昇進し、巴丘の都督となり、荊州の牧の職務を兼任して、爵位を進められて嘉興侯に封ぜられた。
孫晧が晋と和議を結んだ際、その使者となった丁忠は、北方から帰還すると、弋陽を襲撃すればそれを奪取することが可能だと孫晧に説いた。陸凱が諌めてそれを取りやめさせた。
266年、陸凱は左丞相に昇進した。
孫晧は、その性格から他人が自分を見つめることを好まず、群臣たちが御前に出る際にも、誰も真正面から孫晧を見かえしたりする者がなかった。陸凱は孫晧に説いていった、「君臣が互いに相手の顔を見識っておらぬという法はございません。もし突然に不慮の事態がおこりました場合、それでは馳せ参ずべき所が知られぬのでございます。」孫晧は、陸凱が自分のほうを見ることを許した。
孫晧が武昌に還都をすると、揚州の地の人々は、長江を遡って物資を都に運ばねばならず、この負担強化に苦しんだ。しかも孫晧の政治施策には実際と適合せぬものが多かったころから、一般民衆はどん底の生活を強いられた。
陸凱は上疏していった、「臣の聞き及びますところ、有道の君主は民衆を楽しませることをみずからの楽しみとし、無道の君主はわが身ばかりを楽しませるとのことでございます。民衆を楽しませる者は、その楽しみがいつまでも果てることなく、わが身を楽しませる者は、本当の楽しみも得られぬままに亡ぶのでございます。民衆こそは、国家の根本であって、何よりも彼らの食料のことを気を配ってやり、彼らの生命を愛おしんでやらねばなりません。民衆が安らかであれば主君も安らかであり、民衆がたのしむとき主君も楽しむのでございます。近年来、ご主君の威厳は桀・紂のごとき輩のために傷つけられ、ご主君の聡明さは悪事にたけた者によってくもらされ、ご主君のご恩恵は悪党連中のために下々にもまで及んではおりません。災禍もないのに民衆の生命は絶たれ、大事業をおこしたわけでもないのに国家の財貨は尽きはて、無辜の者が罪せられ、手柄もない者が恩賞を受けて、主君を誤らせたという過失ゆえに、天も妖異を現して、しかるに公卿たちは、ひたすら主君のご機嫌を取って寵愛を求めんとし、民衆を苦しめて蓄財をはかり、主君を不義の道に導き、淫猥な風俗に染まって政治教化を傷つけておるのでございます。臣は、こうした事態にひそかに心を痛めております。ただいま隣国との関係は良好であり、四方の辺境地帯にも変事はございませんから、今こそ軍役を止めて兵士たちの力を養い、倉廩に物資をみたして、天の時運がわが国に有利になるのを待つべきときでございます。しかるに天の御心をも驚かせ、万民たちを混乱にまきこみ、民衆たちを不安に陥れ、貴賤を問わず嘆きの声を挙げさせておられますのは、国家を保ち民衆を大切に養ってゆく道にそわぬものでございます。
臣の聞き及びますところ、吉と凶とは天上からはっきりと見通されており、ちょうど影が形にそうように、響きが音に応ずるがごとくであるとのことで、形が動けば影も動き、形が止まれば影も止まるように、そうした法則は因果関係がかっきりと結ばれていて、けっして口先で左右できるようなものではないのでございます。昔、秦が天下を失ったのは、人々に与える恩賞は軽いのに刑罰ばかりが重く、施政は財貨に一貫性がなく、民力は支配者たちの奢侈に疲弊し、人々の目は美色に眩まされ、節操は財貨に濁らされ、奸臣たちが官位にあり、賢者哲人たちは身をかくし、万民は心をおののかせ、天下のすべての者がその政治に苦しんだことに原因があり、そのため結局、巣を覆し卵をこわしてしまうという憂き目をみたのでございます。漢王朝が強大になったのは、支配者みずからが身をもって誠信を行い、諌めに従い賢者の意見を受け入れ、その恩恵は薪取りの者たちにまで及び、親しく巌穴に住む隠者たちに出仕を求め、広く建策を取り上げ、残るくまなく人材を捜して、その志すところを完成に導いたからでございます。
最近では、漢の王朝が衰えましたあと、三つの王朝が鼎立いたしましたが、曹氏はその統治を混乱させたがため、晋がその政事をわがものといたしました。また益州は、険阻な要害に守られ、兵士もその多くが精鋭で強力なものであって、門戸を閉ざして守りを固めれば、万代にわたってその政権を保ってゆくことができたのでございます。しかるに劉氏は与奪の権を正しく行使することができず、賞も罰もしかるべき者に与えられず、主君はほしいままに奢侈を行ない、民力は不急の事業に使い尽されて、それがために晋の討伐をうけて、君臣ともども捕虜となりました。これらがつい先ごろに起こった、誰の目にも明らかな実例でございます。
臣は、大きな道理には暗く、正しい道を十分に説き表すだけの文才もなく、智力も浅劣で、特に大きな企図と申すようなものもないのでございますが、ただ心中ひそかに陛下のために天下を失うことになられるであろうと惜しむのでございます。ここに謹んで、臣の耳目に触れましたところ、万民たちが煩い苦しんでおりますところ、ご施策の錯乱いたしておりますところを秦上いたしましたが、願わくは陛下には、大きな工事を取り止められ、各種の出兵もその数をおへらしになり、寛容なご統治に務められ、苛政をおゆるめくださいますように。
また武昌の土地は、危険が多く地味は薄く、王者がそこに都を定めて国家を安んじ国民を養い育ててゆくにふさわしいところではございません。そこに船を泊めて沈没漂流の心配があり、おかに住まいを作ろうとしても土地は山がけでけわしく、加えて童謡にも『たとえ建業で水を飲んで暮らすことになろうとも、武昌の魚を食うよりましだ。たとえ建業にもどれば死ぬことになろうとも、武昌に止まってはいたくない』と申しております。聞けば、翼の星座に異変がおこり、火星が妖異を示したとのこと。童謡のいうところは、天の御心に発するものでございますが、その童謡が現在の居住地に満足して死にもたとえておりますところから、天のご意志は十分に明らかであり、民衆が苦しんでおるところも知られるのでございます。
国家に三年分の備蓄がされなければ、もうそれは国とはいえぬと申しますが、現在、わが国には一年分の備蓄もございません。こうした事態にたち至った責は臣下たちにございます。しかるに公卿たちなど、人々の上の位し、その地位が子孫まで保証されております者たちは、主君のために生命をささげようとの節操や国家の危難を救うべき方策は、まったく持ちあわせず、なおざりに小さな利益をご主君に心進して、お気に入られんことのみを求め、万民を苦しみのどん底におとしいれるばかりで、本心からご主君のおんためを計ろうとはいたしておりません。孫弘が義兵を挙げようとして以来、農耕に力が注がれることがなくなり、各地で上納が行われなくなりましたのに、同じ家の父と子とを別々の戦役にかり出しましたため、食料の給付額は日ごとに膨張し、国家の備蓄は日ごとに現象し、民衆たちは一家の離散を怨み、国家はしだいにその根本が危うくなっております。しかし、この事態を憂慮して挽回を計ろうとする者は誰もございません。民力は困窮して、子供を売るまでに至っておりますのに、税金と労役とは次々とかけられ、日ごとに疲弊は深まって極点に達しておるのでございます。しかるにいずこの地方でも行政の長たちは、こうした事態の改善を計ろうとはせず、それにくわえて監督の役人たちも、民衆をいつくしんでないだけでなく、みずからも権勢を振るうことにつとめ、いたる所で騒ぎをまきおこして、地方官ともども民衆を苦しめひどい目に会わせ、民衆たちはこの二つの方向から苦しめられて、資財も力も二重に消耗しております。こうした地方官や監督機構は、無益であるだけでなく有害なのでございます。どうか陛下には、こうした者たちをすべて罷免され、身寄りのない哀れな立場の者たちに慈しみを垂れられて、民衆たちの心を安んじてやってくださいますように。そのようにしていただけますならば、あたかも魚や鼈が毒蛇の住む淵から逃れられたかのように、あるいはまた鳥や獣が網目から逃れたかのように、四方の民衆たちは赤子を背負って身を寄せてまいるでございましょう。そのようにされますとき、民衆たちをしっかりとつなぎ止めることができ、先王さまから伝えられました御国もゆるぎなく存続くのでございます。
臣は複雑な音階をそなえた音楽は人の耳の鋭敏さを損ない、きらびやかな色彩をそなえた技芸は人の目の鋭利さを損なう、と聞いております。これらの音楽や技芸は、政治にとってなんの益もないばかりか、実際の仕事に損失を及ぼすものでございます。昔、先帝さまの時代には、後官の官女たちや官中で紡織に従事する女性たちは、全部合わせてもその数は百人には満たず、米穀の貯えもあり、財貨にも余裕がございました。先帝さまの崩御ののち、孫亮・景帝さまが位に即かれますと、生活は奢侈なものに変えられ、先帝さまが取られた道に踏み従われませんでした。聞き及びますところ、紡織にあたる女性および特に仕事があるわけでもない女官が、何千という数で官中におりますとのこと。彼女たちの技能を見てみましても、それが国家の財政の補いとなるわけでもありませぬのに、官の食料を徒食して、年々歳々相も変わらず宮中で無為の生活をいたしております。これらは無益な者でありますゆえ、どうか陛下には、彼女たちに選抜を加えて宮中から出して結婚を許され、妻を持たぬ者たちにお与えくださいますように。このようにしていただけますならば、上は天の心に応じ、下は大地の意と合して、天下万民にとってこの上もない幸いでございます。
臣が聞き及びますところ、殷の湯王は有能な人物を商売人たちの間からでも取り立て、斉の桓公は有能な人物を牛車駆る人夫たちの間からも取り立て、周の武王は有能な人物を薪取りたちの間からも取り立て、漢王朝では有能な人物を奴隷や下僕たちの間からも取り立てた、とのことでございます。賢明なる王者、聖なる主君は、人物を取り立てるに際し、賢であるかどうかという点だけで判断を下し、その者の身分や賤しさなどは問題にいたしませんでした。さればこそ、そうした主君たちの成就した業績とその恩徳とは豊かに満ちあふれ、その名は書物に記し伝えられたのであって、けっして顔色をつくろう者たちを喜び、服装を飾り、口先がよく働き、にこやかな顔つきをした者たちを取り立てたのではございませんでした。臣が拝見いたしますところ、ただいまお側近くにあってご寵愛をいただいております臣下たちは、官位の高さはその人物人格に相応せず、任務の重さはその器量を越えて、国家のために時勢を望ましい方向に導いてゆく力もないのに、互いに党派を結んでしめし合い、忠臣を害し賢者をおさえつけておるのでございます。どうか陛下には、文官武官たちの能力を判別され、それぞれの官位にあって仕事に尽力するようはげまされますように。州牧や各地の軍の司令官、領地を授かって藩鎮となっているものや異民族の首領たち、公卿や尚書たちが、務めて仁徳により教化を実行して、上は陛下をお助けし、下は民衆たちを苦難から救い、おのおのその忠を尽し、陛下の万一のお過ちを補佐いたしますれば、康らかなる哉という頌め歌がおこり、刑罰は用いられることがないという道理がはればれと実現するのでございます。どうか陛下には、臣が申し上げました愚かなる言葉にも、ご聖慮くださいますように。」
この当時、殿上に侍る武将の一人、何定が、言葉巧みに主君に取り入り、寵愛を受けて政治を任されていた。陸凱は面と向かってその何定を非難していった、「あなたは、主君に仕えて忠を尽くさず、国政を傾け乱した者たちの例を、古今にわたって見て見られるがよい。そうした者たちの中に、天寿を全うできた者がおるであろうか。なぜへつらいと悪事をもっぱらにして、天子のお耳にけがされるのか。みずから行ないを改めて善行に励まされるがよろしい。さもなければ、遠からずあなたが不測の禍いにあうのを見ることになろう。」
何定は陸凱をひどく恨み、彼を中傷しようと企てたが、陸凱はそうしたことを少しも意に介せず、ひたすら公家のために心をくだき、義を貫こうとする気概はその顔色にも表われ、上表や上疏は事実をそのまま指摘して歯に衣をきせることなく、その誠懇は本心から出るものであった。
269年、陸凱の病気が篤くなったとき、孫晧は中書令の董朝を遺わして、陸凱に申し述べたいことがないかどうかを尋ねさせた。
陸凱は上陳していった、「何定を任用されてはなりませぬ。彼は地方官に任じて外に出されるのがよろしく、国家の大事を彼に委ねられるようなことがあってはありません。奚煕は小役人でありながら、浦里に水田をひらくことを建議し、かつて厳密がやったと同じようなことを行おうと望んでおりますが、これもお許しになってはなりません。姚信・楼玄・賀邵 ・張悌・郭逴・薛瑩・滕脩、それにわが族弟の陸喜・陸抗といった者たちは、あるいは清廉に身を処しつつ忠勤にはげみ、あるいは天賊の才能を豊かにそなえ、それぞれに社稷の根幹となり、国家の良き補佐者となる者たちでございます。どうか陛下には、彼らに厚いご配慮をお加えくださり、そのときどきの重要問題について彼らの意見を微されますように。おのおのその忠を尽くして、陛下の万一のお過ちを補佐いたすでありましょう。」
まもなく陸凱は死去した。享年72。
もともと孫晧は、陸凱がしばしば自分の気持ちに逆らって反対意見を申し述べるのを心平らかならず思っており、加えて何定が一再ならず陸凱の讒言をして陥れようとしていたのであるが、陸凱が重臣であるところから法によって処分することが困難であり、しかも陸抗が当時、多数の軍勢を率いて国境地帯にいたこともあって、これらの事情を考慮したうえで、陸氏一族に対する処分は見あわせていたのであった。陸抗が死去すると、ついに陸凱の家族たちを建安に強制居住させた。
次のような事件があったという者もある。宝鼎元年(266年)の十二月、陸凱は、大司馬の丁奉、御氏大夫の丁固と謀り、孫晧が廟に謁でるときをとらえて、孫晧を廃して孫休の息子を帝位に即けようとくわだてた。この当時、左将軍の留平が兵を率いて孫晧の儀仗の先導の任にあたっていたところから、ひそかにこの計画を留平に伝えた。留平は一味に加わることを拒絶したが、伝え聞いたことは人にもらさぬと誓言をした。留平が参加をことわったことから計画は実行されぬままに終った。太史郎の陳苗が孫晧に上奏をし、久しく陰ったまま雨が降らず、風がくるくると方向を転ずるのは、陰かな謀みが実行されようとしているからですといい、孫晧は警戒を強め心をおののかせたとされる。
『呉録』にいう。もともと宗廟に参詣するときには、適当な者を選んで大将軍の任を兼ねさせ、三千の兵を率いて護衛に当たることになっていた。陸凱は、この護衛の兵でもって事をおこそうと考え、選曹に命じて丁奉をその任に当てるようにと上申させた。
孫晧は、たまたまこの人選が気に入らず、「別の者を選ぶように」といった。陸凱は、選曹の役人に指示してしばらくの間の大将軍の兼任だとはいえ、ちゃんとした人物をそれに当てねばなりませんと主張させた。
孫晧がいった、「留平を用いるがよい。」陸凱は、その息子の陸暐に命じて、留平に孫晧廃位の謀りごとのことを伝えさせようとした。留平は平素から丁奉とは仲が悪く、陸暐がまだ陸凱から伝えるようにいわれたことづけを口に出さぬ先に、留平のほうから陸暐に「聞けば野豚が丁奉の軍営に入りこんだそうだが、これは不吉なことが起こる知らせだ」といって、嬉しそうな顔をした。陸暐は、こうした様子を見て、謀りごとのことは口にださぬままもどり、くわしく陸凱にその事情を申し述べた。そのために計画は立ち消えとなった。
私は荊州や揚州からやって来た者たちから、しばしば陸凱が孫晧を諌めて述べたとされる二十項目のことを聞かされ、呉の人々にいろいろと尋ねてみたのであるが、多くの者は、陸凱にこうした上表があったとは聞いていないと答えた。
加うるに、その文章を見てみれば、まったく歯に布を着せぬ言い方であって、孫晧がそのまますませたとは考えられない。ある者は、こうした上表文を陸凱は文箱に入れたままにして、実際に上表しようとはしなかったのであるが、病気が重くなり、孫晧が董朝を見舞いにやって、いい残すことはないかと尋ねさせた際に、この文章を董朝に託したのだという。こうしたことの真偽は明らかにしがたいところから、伝の本文には載せなかったのであるが、その文章が孫晧のなしたことをあからさまに取り上げ、後世の戒めとするに足るものであることを惜しんで、陸凱伝の後に付載しようと思う。
孫晧は、側近の趙欽を遺って陸凱の前の上表に対する返事を口頭で伝えさせていった、「私はすべてにわたって先帝の行われた道にしたがっておるのであって、どこに不穏当なところがあると申すのか。あなたの諫めの内容は根本的に間違っておるのだ。それに建業の宮殿には不吉なところがあるため、ここを離れるのであり、しかも西宮は建物が破損しておるので、遷都について計画を練らねばならぬのである。どうして都を遷してならぬということがあろう。」
陸凱が上疏していった、「臣がひそかに観察いたしますところ、陛下が政治をお執りになって以来、陰陽は変調をきたし、五つの惑星はその軌道をはずれて、役人たちも忠誠に励まず、奸邪な一味が互いに腹を合わせつつ悪事を働いております。これは陛下が先帝さまの行われたところにのっとておられぬことが招いた結果なのでございます。そもそも王者たるものがその事業を盛んにいたしますのは、天より命を受け、徳行を修めることによって事をつつがなく運んでゆくのであって、宮殿をどこに置くかといったことは何の関係もないのでございます。しかも陛下は、このたびの遷都のことを輔弼の臣に諮問されることもなく、お気持のままにその実行にはやられておるのでございますが、全軍の兵士たちは故郷を棄てねばならぬことを悲しみ不安に思い、天地の御心にもそむかれたため、天地は災異をあらわし、童歌も人々の苦しみを唱って流行しておるのでございます。たとえ陛下のご一身が安楽を得られましたとしても、万民が愁い苦しみますのであれば、ご統治になんの益がありましょう。これが先帝さまの行われたところに従っておられぬことの第一でございます。
臣は、一国の主君は賢者を得ることを統治の根本とする、と聞いております。夏王朝は関龍逢を殺したことで亡び、殷王朝は伊尹を得たことで盛んとなりました。これは前の世における明らかな効験であって、今の世においても規範とすべき例でございます。中常侍の王蕃は、君子として中庸の立場を持しつつすべての物事に通じ、朝廷にあっては忠誠から直言をいたし、国家の重鎮であり、呉の国にとっての関龍逢でございました。しかるに陛下は、彼のお耳に痛い言葉に腹を立てられ、彼の歯に布をきせぬ対応を憎まれて、殿上において彼を殺してその首をさらしものとされ、その死体を野外にうち棄てられました。国内は挙げて心を痛め、心ある者たちは悲しみを悼んで、みな呉国の夫差がふたたび生れ出たのだと評判したのでございます。先帝さまは賢者に親しまれたのでございますが、陛下はそうではございません。これが陛下が先帝さまの行われたところに従っておられぬことの第二でございます。
臣は宰相は国家の柱であると聞いております。柱であれば、しっかりとした人物であらねばなりません、さればこそ漢の王朝には蕭何・曹参といった立派な補佐者がおり、先帝さまにも顧雍・歩隲といった人物が宰相としておったのでございます。しかるに万彧は、ちっぽけな才能と凡庸な資質とでもって、かつては家隷であったものが、大昇進をして殿上に参わる身分となったのであります。万彧にとって身に余るものであり、その器量からいっても過分なものでございますが、陛下は彼の小細工を愛されて、その心ばせ全体がいかなるものかについては考えてみられることなく、彼に輔弼の臣としての栄誉を与え、古くからの臣下たちにまさる優遇を与えておられます。すぐれた資質と行いとをそなえた者たちは、これに対して不満と憤りとを懐き、智謀の士たちは、これを強く非難しております。これが陛下が先帝さまの行ないに従っておられぬことに第三でございます。
先帝さまは、嬰児を可愛がる以上に民を愛され、民に妻のない者がおればご自身の側室を妻として与えられ、布一枚で寒さにふるえておる者を見かけられると絹をその者にお与えになり、野ざらしの骨があれば収め取って埋葬しておやりになりました。しかるに陛下は、その逆を行なっておられます。これが陛下が先帝さまが行われたところに従っておられぬことの第四でございます。
昔、桀王・紂王が国を滅ぼしたのは妖婦のためであり、幽王・厲王が国を乱したのは愛妾のためでございました。先帝さまはこのことに鑑みられ、みずからの戒めとされて、それゆえお側には色気たっぷりの美人を置かれることなく、後宮にもご用のないままの女性はおらなかったのでございます。ただいま皇后さまのもとには万にも昇る数の女官がおりますが、主君のお世話に当たるわけでもなく、世間には妻を得られぬ男が多数出て、宮中では女性たちがわが身の上をかこっております。風雨が不順であるのも、まさにこのことが原因なのでございます。これが先帝さまが行われたところに従っておられぬことの第五でございます。
先帝さまは、主君としての煩瑣なつとめのすべてに心をくだかれ、しかもなお不十分なところがあるのではないかとおそれておられました。陛下は、ご即位以来、後宮で遊びたわむれられ、女たちの色香に迷われて、もろもろの政事は多くがほったらかされたままとなり、小役人たちも互いになれあって悪事を働いております。これが先帝さまが行われたところに従っておられぬことの第六でございます。
先帝さまは質素さを尚ばれ、衣服には緑飾りや色どりのあるものを用いられず、宮中には高い台を築かれることなく、器物にも雕飾を加えることをいたされませんでした。さればこそ国家は豊かに民力も充実して、悪盗たちがおこることもなかったのであります。しかるに陛下は、州や郡から貢ぎ物を取り立てられ、民衆の財力を根こそぎにされて、土の上に玄や黄の絹を敷きつめ、宮殿を朱や紫で飾っておられます。これが先帝さまが行われたところに従っておられぬことの第七でございます。
先帝さまは、大きな政治方針をたてるについては顧承・陸遜・歩隲・張昭の力をかりられ、具体的な行政については胡綜・薛綜を信任されました。その結果、もろもろの施策は順調に成果を挙げ、国内は清らかに引きしまったのでございます。ただいまは、外に対する防衛に当たる物はその任にたえず、内政に当る者もその人を得てはおりません。陳声や曹輔は、器量の小さい小役人であって、先帝さまは彼らを棄ててお用いになりませんでしたのに、陛下はそれをご寵愛なさっておられます。これが先帝さまが行われたところに従っておられぬことの第八でございます。
先帝さまが臣下たちを招いて宴会を開かれました際には、いつも美酒の量を抑えられて、臣下たちは終日にわたる宴にも酔いのうえでの失敗を犯すことがなく、百官やその長たちは臣下たちは思うところを十分に陳べることができたのでございます。しかるに陛下は、臣下たちが直接に陛下と視線を交じわすことを無礼だとして許されず、また賜わった杯を残りなく飲みほさぬと臣下たちをおそれさせておられます。そもそも酒と申しますものは、それによって礼をとどこおりなく完成させるものではございますが、過度になれば徳を敗るのであって、こうした陛下のやり方は、商辛の長夜の宴と異なるところがございません。これが先帝さまが行われたところに従っておられぬことの第九でございます。
昔、漢の桓帝・霊帝は、宦官どもを近づけたがために、大いに民心を失いました。ただいま、高通・詹廉・羊度は、黄門の小人物にすぎませぬのに、陛下は彼らに恩賞として高い爵位を賜い、戦いを発動し兵士を指揮する権限を与えておられます。もし長江の沿岸に重大事態が起り、狼煙が次々と上げられるようなことになりましたとき、高通らの武略では敵の侵略を食い止めることができぬことは明白でございます。これが先帝さまが行われたところに従っておられぬことの第十でございます。
ただいま官中の女性たちは、多数の者が仕事もないままに無為に日々を送っておりますのに、黄門たちはなおも州や郡をはせめぐって、民の娘たちを名簿に登録し、銭のある者は見逃すが、銭のない者たちからはその娘を宮中に召しいれております。各地の街道に怨嗟の声がかまびすしく、母と娘とは生き別れとなって死ぬまで会えぬのでございます。これが先帝さまの行われたところに従っておられぬ第十一でございます。
先帝さまがご在世のときにも、諸王さま太子さまたちを大切に養育されたのではありますが、もし乳母として召される者があれば、その夫は役を免除され、財貨を賜与し、食料物資を給付し、乳母もときに家に帰って、幼い者たちの世話をすることを許されました。ただいまは、そうではございません。夫婦は生き別れとなり、夫は依然として役にかり出され、子供たちは後にのこされて死亡し、家は住む者もない空屋となってしまいます。これが先帝さまが行われたところに従っておられぬことの第十二でございます。
先帝さまが心をこめて申されたことがございます、「国家は民を根本とし、民は食料を天とたのみ、衣服はこれに次いで重要なものだ、私はこの三者をつねに心にかけて忘れることがない」と。今はそうではなく、農耕も養蚕もともに打ち棄てられております。これが先帝さまが行われたところに従っておられぬことの第十三でございます。
先帝さまが心をこめて申されたことがございます、「国家は民を根本とし、民は食料を天とたのみ、衣服はこれに次いで重要なものだ、私はこの三者をつねに心にかけて忘れることがない」と。今はそうではなく、農耕も養蚕もともに打ち棄てられております。これが先帝さまが行われたところに従っておられぬことの第十三でございます。
先帝さまが人物を登用されます際には、身分の賤しいことなどは問題とされず、その者の郷里における推薦をそのまま受け入れたうえで、実際の仕事によって能力を判断されました。推挙する者もちゃんとした人物を推し、推挙を受けた者もけっしてなおざりなことはいたさなかったのでございます。今はそうではございません。浮ついた上辺だけの者が登用され、朋党を結んでおる者たちが昇進しておるのでございます。これが先帝さまが行われたところに従っておられぬことの第十四でございます。
先帝さまのもとにありました戦士たちは、定まった役以外にかり出されることがなく、春にはひたすら農耕に精を出し、昭にはひたすら稲の収穫につとめればよいとされ、長江沿岸に変事があったときだけ、命がけで戦うことが求められたのでありました。いまの戦士たちは、さまざまな役に微用され、しかも支給される手当は不十分でございます。これが先帝さまが行われたところに従っておられぬ第十五でございます。
恩賞と申しますものは立派な手柄を立てるよう勧めるために設けられるものであり、刑罰は悪事を禁ずるために設けられるものであって、この賞と罰とが正しく行われねば、士人や民衆たちを一つに纏めてゆくことが困難になります。ただいま長江沿岸の守りにあたる武将や兵士たちは、死亡しても哀れみを受けることなく、功労があっても賞せられることがございません。これが先帝さまが行われたところに従っておられれぬことの第十六でございます。
ただいま各地に監察の役人が置かれて煩雑でありますうえに、さらに宮廷からの使者が遺わされて、地方政治に混乱をもたらしております。一人の人民に対し十人の役人がいたのでは、どうしてそのすべての命令に従えましょう。昔、景帝の時代に交阯に反乱がおこりましたのも、実はこうしたことが原因でございました。現在の事態は、景帝の失政をなぞるものであって、これが先帝さまが行われたところに従っておられぬことの第十七でございます。
そもそも校事と申しますものは、役人にとっても民衆にとっても仇敵でございます。先帝さまの末年には、呂壱や銭欽がこれにあたりましたが、ほどなく二人をともに誅殺されて、先帝さまは人々に陳謝されたのでありました。いままた監察の役所を拡張され、その役人たちがほしいままに弾劾を行なうのを許しておられます。これが先帝さまが行なわれたところに従っておられぬことの第十八でございます。
先帝さまの時代には、官位にある者は久しく一つの職務を務めたあとで、その成績を調べて官位を上げたり下げたりされました。ただ今では、州や県に赴任した者が、着任していくばくにもならぬうちに、召し返されたり転任したりする例がございます。新任者を迎え旧任者を見送るため、街道に人々がごったがえして、財貨を費やし民衆をそこなう点で、これがその最たるものの一つでございます。これが先帝さまが行なわれたところに従っておられぬ第十九でございます。
先帝さまは、罪人たちについての最終判決を報告する奏上に目を通されますときには、必ず注意深く検討を加えられたうえで、認可を与えられました。それがため獄には無実を訴える囚人がなく、死刑に処せられる者も納得をして死んでいったのでございます。ただ今はそうではございません。これが先帝さまが行なわれたところに従っておられぬことの第二十でございます。
もし臣が申し上げました言葉の中に取るべきところがございますれば、司盟の府にご保存くださいますように。もしでたらめでありますならば、臣をしかるべき罰をお与えください。どうか陛下には、申し上げましたところにご留意いただきますように。」
『江表伝』が記載する陸凱のこの上奏には次のようにある。「臣は陛下の詔を拝受いたしまして、心も気もふさがれる思いがいたしました。陛下には、なんと頑な心を持たれ、なんとご聡明さを欠けておられることでございましょう。」
『江表伝』にいう。孫晧の行いがいよいよ暴虐となると、陸凱は彼が遠からず国を亡ぼすであろうと悟り、上表をしていった、「臣は、悪事は積み重ねてはならず、過ちは繰り返してはならない、と聞いております。悪事を積み重ね過ちを繰り返すことは、喪乱の源となるからでございます。それゆえ古の人々は、自分の間違いを指摘する言葉が聞けぬことを心配して、進善の旗を立て、敢諫の鼓を設けたのでございます。衞の武公は、九十という老齢になっても、自分を戒める言葉を聞きたいと心がけましたがゆえに、『詩経』は武公のそうした徳を賛美し、人々も武公のそうした行いを喜んだのでございます。臣がお見うけいたしますところ、陛下には、戒めの言葉を聞きたいと願われるような義しいお気持はなく、かえってご悪行ばかりが積み重なっておるのでございます。臣はこうした事態を深く憂慮いたしてまいりましたが、今は災禍がおとずれるであろう兆がはっきりと現れておるのでございます。それゆえ肝要な点をあらあら申し述べて、心中におもいますところをのこりなく書き写そうといたすのでございます。どうか陛下には、みずからを抑えて正しい礼の道に従われ、前の世の徳を備えられた方々の行いを踏み行われ、臣の申し上げますところを無視され、心のままに振る舞われたりはなさいませんように。もし心のままに振る舞われますならば、役人たちは日々に民衆たちをいためつけることになります。民衆たちの心がばらばらになりましたとき、上の者は下の者を信頼せず、下の者は上の者を疑うことになって、骨肉が相い食み、公子たちも陛下にそむき去るのです。臣は愚昧であって、天命の移り行きにはいっこうに暗いのでございますが、一心をもって事態を勘案いたしてみますれば、国家に危機がおとずれますこと、このさき二十年を出ないでありましょう。臣はつねずね国家を滅ぼした夏の桀王、殷の紂王といった者たちを腹立たしく思ってまいりましたゆえに、後世の人々に陛下のことを腹立たしく思われるようなことがあってはならぬと考えるのでございます。臣は、国家のご恩を受け、三代にわたって朝廷にお仕えして、もう晩年になってから陛下のご治世にめぐりあわせたのでございますが、世間一般の生き方に順応し、大勢に流されてなおざりに生きてゆくことはできません。もし比干や伍員のように、忠誠を懐きながら殺され、正しい行いを守りながら疑われるのでありますならば、みずからそれを満足に思い、思いのこすこともなく、わが身が土中に朽ち果てますときにも、先帝さまの申し訳が立つのでございます。どうか陛下には、九思をお加えくださいますように。そういたされますとき社稷は万全であるのでございます。」
孫晧が新しい宮殿の造営に着手しようとしたとき、陸凱は上表をしてそれを諌めたが聴かれなかった。陸凱は重ねて上表をして次のようにいった、「臣は、宮殿の造営が始められようとしているとお聞きして、夜も輾転反側して眠られず、それゆえしばしば上表をいたしてお耳を煩わせたのでございますが、その上表の多くは陛下のもとに留められたまま、お返事がいただけないのでございました。心は鬱屈し嘆息しつつも、おやめいただけるのではないかとの希望を懐いてまいったのでございます。昨日のお昼まえ、詔をいただき、次のように申されました、『あなたが諌められるところは、たしかにものごとの大原則を述べられたものではあるが、いかんせん私の考えるところには合致しない。今の宮殿には不吉なところがあるのであるから、これを避けて当然のことであって、民衆を労役で苦しめぬためといって、不吉な宮殿にいつまでも留まっていてよいものだろうか。父親の心が安らがぬとき、子供は何をたよりにしたらよいと申すのか』と。臣はお書きくださいました詔を拝受し、つつしんで目を通させていただきましたが、覚えず胸がつまり、涙は雨の降るように流れたのでございます。臣は、年はすでに六十九に達し、栄誉も俸禄も十分に重く、いずれも臣にとりましては過分のものであって、これ以上に何を望みましょうか。性懲りもなく幾度も苦言を申し上げますのは、孫権さまが、国家経営の基を定めるために、弛むことなく辛苦を重ねられ、鬢に白髪が生じ、膚がそのつやを失ってもなお甲冑をつけて大切に思うからでございます。天下がやっと静まりましたやさき、孫権さまは早々に崩御され、生きとし生けるもの、言葉のしゃべれる倫はすべて、悲しみにすすり泣き、あたかも父母を喪ったかのようでございました。あとを嗣いで幼君が即位されましたが、政治の権柄は臣下に握られ、軍はしばしばの出征に消耗し、民衆は削りとるがごとく搾取を受け、賊臣たちが政治を乱し、国家は疲弊しつくしたのでございます。ただいま強力な敵国が行く手に立ちふさがり、西の州は亡びさってしまいました。よるべなき疲れ切った民衆たちは、大切に養ってやらねばならず、同時にまた力を尽し事業を拡大させて、有事の際に備えなければならないのでございます。それに加え、遷都を行なわれた当初、ちょうど軍を出征させねばならない事態がおこり、兵士たちは遠方の土地を流離い、各地の州や郡では騒動がおこっております。しかるにさらに宮殿建築の大工事を起され、四方から民衆を微用したりされますのは、国家の安全を保ちつつ大平の治を実現するという道にそむくものでございます。臣は、主君たる者は、徳を積むことによって災異をはらい、義を行なうことによって天の降す咎めを除くのだ、と聞いております。さればこそ殷の湯王は大きな旱に遭うと、わが身を犠牲にして桑林で雨乞いをし、螢惑が心宿に留まって、宋の景公は宮殿を出て、その結果、旱魃は去り、妖星も他の星座に移ったのでございました。ただいま宮殿に不吉なことがございますれば、ただひたすらおのれを抑えて礼の道にもどられ、湯王や景公が行なった最高の道をみずからも実行されて、民衆たちの困苦をあわれんでおやりになるべきであって、宮殿に気がかりな怪事がおこることや、災異がひき続いておることなど、どうして心配される必要がございましょう。陛下は、徳を修めんとは務められず、宮殿の造営にばかり力を注いでおられますが、もし徳を修められず、行いを立派にされぬのであれば、たとえ紂王の瑶台や、秦の始皇の阿房官のごとき大建築を作られたとしても、身を亡ぼし国を覆し、宗廟が廃墟となるのをどうして防ぎ止めることができましょう。土木工事をおこして、高い建築物を作れば、水害や旱魃をまねくばかりでなく、民衆も多くそれに苦しみ、謀反の心を懐かずにはいないのでございます。父たるものが安楽に暮らせたとしても、その子の依り所を奪ってしまうというのでは、結局は息子を父親にそむかせ、臣下を陛下にそむかせる原因ともなるのでございます。臣下や子供たちがひとたびそむいてしまいますれば、たとえおのれの生活をつつましやかにせんとし、軒端の茅もきりそろえぬ粗末な建物に住んだとしても、もう何の効果もございません。さればこそ孫権さまは、南官に住まわされましたとき、それが阿房官にもまさるものだとしてみずからを戒めておられたのでございます。ですから先朝の大臣たちが、宮殿を立派なものにすることによって、不慮の事態に備えられるべきですと申し上げたとき、孫権さまは、『逆賊たちが変事を引きおこそうとしておるとき、何をおいても万民たちをいつくしみ育てねばならない。不急の事がらに心をむける余裕なぞどうしてあろうか』と申されましたのでございます。しかし臣下たちが心を込めてお願いしたため、やむをえず、近辺の郡の者たちだけを微用し、ひとまずは人々の願いにそわれたのでありましたが、実際に工事を起こすことになってからも、なお三年間、着工をためらわれたのでございました。その当時、盗賊たちは鳴りをひそめてわが国内を乱すこともなく、魏の軍勢は北に逃げかえり、しかも西方には岷山・漢水の守りがあり、南方の土地も平穏であったのでございますが、それでも孫権さまは謙譲されて、宮殿を築くことに色よい返事をなさいませんでした。ましてや陛下は、傾きかかった世の中に身を置かれ、加えて孫権さまの御徳には及びもつかれぬのでございますから、十分なご配慮がなくてよいものでしょうか。どうか陛下には、このことにご聖慮をお留めいただきますように。臣の申し上げましたことに嘘いつわりはございません。」
陸凱は、誠心を備え男らしくまっすぐ行動をして、節操を貫き通し、大丈夫として最高の仕事を成し遂げた。