三国志による三国志好きのための三国志総合情報サイト

登録人物伝 326 名 | 101人が閲覧中

三国志.jp[三国志総合情報サイト]
月間キーワード 11月の出来事
蜀漢滅亡

後漢伝


太史慈 子義たいしじ しぎ

姓名太史慈
子義
生没年166年 - 206年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評孫呉二代を支え、曹操にも愛された猛将
主な関連人物 孫権 孫策 太史享 
関連年表 192年 孔融を救出する
195年 孫策と一騎討ち
199年 劉磐を撃退する
200年 南方地域全般を任される

略歴

太史慈は、字を子義といい、東莱郡の黄県の人である。子に太史享がいる。若いときから学問を好み、郡の役所に仕えて奏曹史となった。

たまたま郡と青州との間に確執が起こり、どちらかが正しいのか決着がつかず、先に朝廷に上聞したほうが有利な状況となった。太史慈は使者に選ばれて、上章をもって都へのぼったが、州の役人がすでに上章をもって、公車の役所(上章や献納物を扱う)の門にいた。太史慈は州の上章を破り捨て、郡を有利に働かせた。このことで州の役所から憎まれ、禍を被ることを心配し、遼凍へ逃亡した。21歳のときであった。

北海国の相であった孔融は、太史慈のことを伝え聞いてなかなかの人物だと考え、しばしば人を遣って彼の母親のご機嫌うかがいをさせ、あわせて贈り物をした。

この当時、黄巾が反乱をおこし乱暴を働いていたことから、孔融は軍を進めて都昌に軍営を置いたが、そこで黄巾側の管亥の包囲をうけた。遼凍から戻った太史慈は、母親の恩義を感じて、孔融を助けるために軍営に忍び込んだ。

黄巾の包囲は日に日に強くなり、城内誰もが脱出できない中、太史慈は平原の相・劉備のもとに救援を要請してもらうため、使者として自らかってでた。厳しい包囲の中、太史慈は無事に劉備のもとへ到着し、精鋭兵三千を借りて孔融を救出した。救出された孔融は以前にもまして太史慈を尊重し、「あなたは我が若き友だ」と称揚した。一連の事態が収まると太史慈は母親にこのことを報告した。母親も「あなたが孔融どのに恩返しできた事を嬉しく思います」と太史慈を讃えた。

孔融救出後、太史慈は曲阿におもむいて、揚州刺史の劉ヨウに目通りした。劉ヨウの立ち去らぬうちに、たまたま孫策の軍がよしよせて来た。太史慈は、一騎だけで敵情視察の任で出かけた。たまたま孫策に出くわした。孫策は騎兵十三人をしたがえ、それがみな韓当・宋謙・黄蓋の勇猛の士であった。太史慈はためらいもなく戦いをいどみ、孫策と正面から渡り合った。ちょうどそのとき、敵味方双方の兵が集まってきたので、二人は左右に分かれた。

その後、太史慈は孫策に敗れた劉ヨウとともに豫章へ逃亡しようとしたが、その途中姿をくらませ、逃げて山中に入ると、自ら勝手に丹陽太守だと自称した。孫策は自ら太史慈討伐を行い、結局、太史慈は捕虜となったが、孫策は太史慈の武勇を評価して、折衡中郎将に任命した。

のちに劉ヨウが豫章で死亡し、その配下や民衆たちが身を寄せるところを失ったので、太史慈を豫章に派遣して、彼らを安撫させようとした。孫策の側近はそろって、太史慈は戻ってこないと主張したが、孫策は太史慈を信じて送り出した。

はたして太史慈は約束の期日どおりに孫策のもとへ戻って来た。

劉表の甥の劉磐は勇猛であって、しばしば艾・西安などの諸県に攻めこんであらしまわっていた。孫策は、そこで海昏と建昌付近の六県を割いて、太史慈を建昌都尉に任じて、海昏にその役所を置かせると、将を指揮して劉磐の侵攻をくいとめた。その後、劉磐は姿をひそめた。

孫策が死去し、孫権が呉国を支配すると、南方地域の諸般のことの処理をすべて太史慈にあずけた。

206年、惜しまれながら死去した。享年41歳。


評価

身の丈は七尺七寸(約177cm)で武勇に優れ、弓を扱えば百発百中の名手であった。のちに孫策と共に山賊討伐を行った時、遠くに見える砦の上から罵声を浴びせかけてきた一人の山賊が木を掴んでいるのを見ると、その手を狙い、掴んでいた木と共に手を貫いたという逸話もある。

曹操が、太史慈の噂を聞いて、是非家臣に迎えたいと「当帰」という薬草を贈り好条件で誘ったが、太史慈は孫権への忠義を選んで拒絶したという。ちなみに「当帰」は「故郷(青州)に帰るべし」という意味を含んでおり、もはや曹操は青州も勢力下においていたので、つまり私の元に来い という暗示であった。

裴松之の注に引く『呉書(韋昭撰)』によれば、「大丈夫という者がこの世に生まれたからには、七尺の剣を帯びて天子の階を登るべきを、その志が実現できぬうちに死ぬ事になろうとは」という発言を今わの際に言ったとされる。


演義

小説『三国志演義』では赤壁の戦いでも存命し、大いに活躍している。209年、合肥の戦いで張遼と戦い、夜襲を仕掛けた時に受けた矢傷がもとで、死去したことになっている。なお、吉川英治の小説『三国志』では、合肥の戦いで張遼に夜襲を仕掛けたものの張遼に察知され城内に攻め込んだところ伏兵の弓兵に返り討ちに遭い、部下ともども射殺されている。

なお、太史慈の墓は1870年に江蘇省鎮江市北固山で発見されている。