劉備が諸葛亮を登用するために、三度立ち寄って説得し迎える。
諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。
人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。
これが有名な「三顧の礼」である。
裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「臥龍」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。
また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、「『出師表』には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。
この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。
これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。
これを「孔明の出廬」と呼ぶ。
見解
現代で言う引きこもり(ニート)な27歳・孔明は就職することなく、劉備から、是非うちの会社に入って、会社を大きくしてくれと頼まれた訳です。
普通ここまで頼み込む人はいません。よほど劉備は困り果てたか、そういう見方もあるかもしれませんが、劉備は軍師である徐庶(優秀な人)が推薦する人だからこそ、動いた部分もあるでしょう(劉備の性格からして)。
また、三度目の訪問時に孔明はスヤスヤと寝ており、それをただ起きるのを待っていた劉備の姿を見て、付き添いで来た張飛が、屋敷に火を付けようとしたエピソードがあります。
まぁ、張飛の気持ちもわかります(笑)