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曹操と劉備の英雄論

蜀伝


張翼 伯恭ちょうよく はくきょう

姓名張翼
伯恭
生没年? - 264年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評晩年の蜀を支えて、滅亡寸前まで剣閣で抵抗した将軍
主な関連人物 劉禅 馬忠 廖化 姜維 
関連年表 214年 書佐となる
231年 綏南中郎将となる
234年 前領軍となる
238年 都亭侯・征西大将軍となる
255年 鎮南大将軍となる
259年 左車騎将軍となる
263年 剣閣攻防

略歴

張翼、字を伯恭といい、武陽県の人である。漢の高祖時代に功績を挙げた張良の子孫である。高祖父は司空の張浩、曾祖父は広陵太守の張綱であって、もとに秀れた事績をあげた名門。子は、張微がいる。

劉備は益州を平定し、益州牧を兼任したとき、張翼を書佐に任命した。

建安の末年、孝廉に推挙され、江陽の長に任命され、梓潼太守に昇進し、続いて広漢・蜀郡の太守に昇進した。

231年、庲降都督・綏南中郎将になった。

張翼は生来、厳格に法律を執行して、異民族の歓心を買おうとしなかった。異民族の頭目の劉胄が反逆して乱をおこしたとき、張翼は兵をこぞって劉胄討伐に赴いたが、劉胄を打ち破らないうちに、たまたまお召しを受けて都へ帰らなければならなくなった。下臣たちはみな、ただちに馬を馳せて罪に服するがよいでしょうと述べたが、張翼は、職務に耐えぬとして呼び戻されるのだから、免職されるからといって任務を放棄してはならない、と述べた。こういうわけで、まじめに指揮を執り続け、後任者の馬忠が到着してから出発した。

馬忠はその基礎にたよって反乱を破り滅ぼした。丞相諸葛亮はその話を聞いて感心した。

諸葛亮は武功に出陣したとき、張翼を前軍都督に任じ、扶風太守を兼任させた。

234年、諸葛亮が逝去すると、前領軍に任命され、以前の反乱撃滅の功績をとりあげられて、関内侯の爵位を賜った。

238年、政府に入って尚書となり、ほどなく督建威・仮節に昇進し、都亭侯・征西大将軍に昇格した。

255年、衛将軍の姜維とともに成都に帰還し、姜維が再度の出兵を提議したとき、ただ張翼だけが朝議の席で反対論を述べ、国家の弱小と民衆の労苦を根拠に、みだり武力を行使してはならないと主張した。姜維は聞き入れず、張翼らを率いて出発し、張翼の位を進めて鎮南大将軍とした。

姜維は狄道に到着すると、魏の雍州刺史の王経をさんざんに破った。張翼が、これ以上進攻してはならないと諫言したが、姜維は大いに腹を立てた。姜維はけっきょく狄道城にいる王経を包囲したが、落とすことができなかった。

張翼が異論をとなえて以来、姜維は内心張翼が気に入らなくなっていたが、それでもいつも引き連れて同行し、張翼もまた仕方なく遠征に加わった。

259年、左車騎将軍に昇進し、冀州刺史を兼任した。

263年、魏のトウ艾、鍾会らが国境を侵入してきたので、姜維はトウ艾と対峙していた。張翼は、廖化とともに漢中へ赴き、迎撃して鍾会と戦ったが、味方の蒋舒の裏切りにより、陽安関がすでに破られたため、引き返して姜維とともに合流して剣閣に駐屯し、魏の鍾会から抵抗していた。しかし、トウ艾が陰平より迂回して緜竹を落とし、成都で劉禅を降伏させた。張翼は姜維とともに鍾会に降伏し、随行して成都に戻った。こうして蜀は滅亡した。

翌年正月、姜維は鍾会と計らってクーデターを起こそうと反逆した。鍾会の部下の胡烈と胡淵が露見し、姜維と鍾会は兵士に囲まれて殺され、そのときの混乱に巻き込まれて張翼も殺害された。


演義

小説『三国志演義』では劉璋配下の武将として登場し、劉璋に劉備が危険人物であるとして忠告するも聞き入れられなかった。劉備が蜀侵攻を開始すると、卓膺と共に劉璝らが守備するラク城の救援部隊として派遣されるが、張任が捕らえられ卓膺が降伏すると、なおも抵抗しようとする劉璝を殺害しラク城を開城して降伏する。

その後は蜀の武将として南征や北伐に参加し、正史同様の最期を遂げた。