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姓名 | 張嶷 |
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字 | 伯岐 |
生没年 | ? - 254年 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | 不明 |
諡号 | --- |
伝評 | 異民族の平定に功績を挙げ、軍事、行政、計略に長けた名将 |
主な関連人物 | 劉禅 馬忠 姜維 |
関連年表 |
227年 山賊討伐 234年 蛮族平定 254年 狄道の戦い |
張嶷、字を伯岐といい、巴西郡南充国の人である。子は、張瑛、張護雄がいる。
張嶷は身よりのない貧しい家の出身であったが、若いころから大人と同じような気概をもっていた。二十歳で県の功曹となった。
劉備が蜀を平定した際、山賊が県を襲撃し、県長は家族を見捨てて逃亡した。張嶷は白刃をかいくぐり、県長の夫人を背負って救出し、夫人は逃れることができた。このことから評判をあげ、州では召し出して従事に任命した。
このころ郡内の士人の襲禄らは二千石の位にあり、当時名声高い人物だったが、みな張嶷と親しく交わった。
227年、丞相諸葛亮が北方の漢中に駐屯した際、広漢・緜竹の山賊の張慕らは軍資を略奪し、官民をむりやり連れ出した。張嶷は都尉として兵を率いて、彼らを討伐することになったが、彼らが鳥の飛び立つように四散し、戦いによって捕らえることが難しいと判断したので、偽って和睦を結び、日時を決めて酒宴を開いた。酒宴の中、張嶷はみずから側近を率い、その場で張慕ら五十余人の首を斬り、主だった者はすべて滅び去った。
後に重病にかかったが、家は平素より貧乏でどうにもならず、広漢太守の何祇が博愛の人と評判されていたので、張嶷は長年疎遠にしていたものの、病をおして車に乗り何祇のもとへ赴いて、病気を治してくれるように頼みこんだ。何祇が財産を傾けて医療に当たってくれたおかげで数年のうちにすっかりよくなった。
牙門将に任命され、馬忠の配下として、北方に赴き反乱した羌族を討伐し、南方に赴き四郡の蛮族を平らげたが、どちらの場合も彼の立てた作戦によって勝利を収めるという功績があった。
丞相諸葛亮が高定を討伐してから後に、たびたび反乱を起こし、太守の襲禄らを殺害した。それから郡は空き、ただ名のみ存在であった。旧郡を復興してほしいと希望があったので、張嶷を越スイ太守に任命した。張嶷は、恩愛と信義をもって招き、蛮族はみな服従し、やってきて降伏帰順するものがかなりあった。
北方の国境にいる捉馬族はもっとも勇猛で、蜀の統制を受け入れなかった。張嶷は征伐に赴き、その指導者の魏狼を生け捕ったうえ、縛めを解いて釈放し、説得して残党に呼びかけさせ帰順させた。上表して魏狼は侯となり、部落はその土地に落ち着いた。諸部族はそれを聞くと、次第に多くのものが降伏するようになった。この功績で関内侯の爵位を賜った。
蘇祁の族長の冬逢とその弟隗渠がいったん降伏したのち、ふたたび反旗をひるがえした。張嶷は冬逢を誅殺したが、隗渠は逃亡して西方の国境地帯に入り込んだ。張嶷は、隗渠の側近が偽って降伏してきたことを見抜き、逆手にとって彼らに厚い恩賞を約束し、情報を提供させた。二人はかくて共謀して隗渠を殺害し、諸部族はみな安定した。
また斯都の頭領の李求承は昔、襲禄を殺害した男だったが、張嶷は懸賞を出して探し逮捕すると、その長年の悪行を糾弾したのち処刑した。
漢嘉郡の境界に部落の統率者狼路は、冬逢の仇討ちをしようとして、叔父の狼離に冬逢の手下を率いさせ様子をうかがわせた。張嶷は逆に側近を派遣し、牛と酒を贈ってねぎらい、さらに狼離に冬逢の妻(冬逢の姉)を引き取らせ、自分の意図を充分に宣布させた。狼離は姉弟ともに大喜びし、配下のすべてをひきつれ張嶷のもとへ参上した。張嶷は手厚くもてなし、恩賞をとらせ帰した。このことからもう災いを起こさなくなった。
251年、武都の氐族の王の苻健が降伏を願い出た。将軍の張尉を迎えにやったが、約束の日が過ぎても到着せず、大将軍の蒋エンはたいそう心配した。張嶷は蒋エンをなだめて、異変が起きて、分裂が起こったのではないかと推測した。かくて数日後報告が入り、はたせるかな苻健の弟は四百戸の部族を率いて魏に降り、ひとり苻健だけが帰服するとのことだった。
張嶷は最初、費イが大将軍となりながら、本性の赴くままに博愛心を示し、帰順したばかりの者をあまりにも信用しすぎるのを見て、文書を出してこれを諌めた。253年の正月、案の定、後に費イは、宴会の祝いの席で、魏の降伏者の郭循(郭脩という説もある)に殺害された。
同年、呉の太傅の諸葛恪ははじめて魏軍を打ち破ったばかりなのに、大軍を動員して、魏を攻略しようと図った。諸葛亮の子で侍中の諸葛瞻は、諸葛恪の従弟であったので、張嶷は彼に手紙を出して、諸葛恪が失敗すれば、事変が起きるから忠告してほしいと願い出た。けっきょく、諸葛恪は魏に敗北して、このため諫言されて一族は皆殺しにされた。
張嶷は風と湿気のため麻痺症の持病をもち、都に着いたあと次第にひどくなって、杖にすがってやっと起きあがることができる状態だった。
254年、魏の狄道の長である李簡が密書をよこして降伏を願い出た。人々はみな疑ったが、張嶷だけはまちがいないと主張した。衛将軍の姜維は出陣に際して、張嶷は重病なので行軍に加わることは不可能だと取りざたされた。それを聞いて張嶷は、敵地で一身をささげたいとみずから願い出た。出発に臨んで、帝の劉禅に別れを告げると、劉禅はその心意気に感じ、彼のために涙を流した。
姜維は張嶷らを率い、李簡の軍資を頼みとして隴西に出陣した。狄道に到着すると、李簡は城下の官吏を率いて軍を出迎えた。軍を進めて魏の将徐質と合戦し、張嶷は陣中で落命した。味方の損害は倍以上の敵兵を殺傷した。
陳寿の評では、張嶷はすぐれた見識をもっていて果敢な行動をした、と評価している。
『益部耆旧伝』では、「張嶷の容貌・動作・言葉使いを観察したが、人を驚かせるようなものはなかった。しかしながらその策略には充分見るべきものがあり、果敢さ壮烈さは威光をうちたてるに足るものがあった。臣下としては忠誠の節義を有し、異民族に対する救いには公正率直な風格をもっており、しかも行動をおこすときには必ず模範となるよう心がけたので、劉禅は彼を心から尊んだのである。古えの英雄といえども、彼よりはるかにまさっているとはいえまい」と評している。
また、『正史本伝』の記述の中では、「張嶷は、激烈な気概の持ち主で、士人のほとんどはその人柄を尊敬した。しかしながら気ままにふるまい礼を無視したので、人はまたそれを理由に彼の悪口をいった」と記されている。
小説『三国志演義』では南蛮遠征からの登場となっているが、南蛮征伐での功績は、殆ど諸葛亮が独り占めしている。また、祝融に一騎打ちで挑み返り討ちに遭って馬忠と共に捕縛されたり、北伐では王双と一騎打ちして重傷を負わせられたりと、彼は脇役の二流の将軍として描写されている。最後は魏軍に追い詰められた姜維を助け出すために突撃して、矢の雨を浴び戦死することになっている。