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姓名 | 趙雲 |
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字 | 子龍 |
生没年 | ? - 229年 |
所属 | 蜀 |
能力 | 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: |
推定血液型 | A型 |
諡号 | 順平侯 |
伝評 | 演義では五虎大将軍の一人!誉れ高き、蜀漢を支えた名将 |
主な関連人物 | 劉備 諸葛亮 趙統 趙広 |
関連年表 |
208年 長阪の戦い 210年 桂陽太守となる 215年 益州平定 219年 漢中平定 223年 永昌亭侯に封じられる 228年 北伐 |
趙雲、字を子龍といい、常山郡真定県の人である。子は、趙統、趙広がいる。父兄は不明。身長は八尺あり、姿や顔つきがきわだってりっぱだった。
郷里の郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて公孫サンのもとに行った。そのころ、劉備も公孫サンに身を寄せていたが、いつも趙雲を評価してつきあったので、趙雲は自分から深く結びつくことができた。
公孫サンが劉備を派遣して田楷を助けて袁紹を防がせたとき、趙雲は随行することとなり、劉備の主騎になった。
趙雲は兄の喪のため公孫サンのもとを辞してしばらく故郷に帰ることになった。劉備は彼が戻ってこないことを悟り、手を握って別れた。
劉備が曹操に敗れて、袁紹に頼ると、趙雲はギョウで目通りした。劉備は趙雲と同じ床で眠り、ひそかに趙雲を派遣して兵を募集させ数百人を手に入れた。かくて劉備に従って荊州に赴いた。
夏侯惇と博望で交戦して、夏侯蘭を生け捕りにした。夏侯蘭は趙雲と同郷の人で、幼少からの知り合いであった。趙雲は劉備に申し上げて夏侯蘭を助けてやり、軍正とした。
劉備が曹操によって当陽県の長阪まで追撃され、妻子を捨てて南方へ逃走したとき、趙雲は身に幼子を抱いた。すなわち劉禅である。甘夫人を保護した。すなわち劉禅の母である。おかげでどちらも危難を免れることができた。この功績で牙門将軍に昇進した。
江南平定に従い、偏将軍に任ぜられ桂陽太守を兼務し、趙範と交替した。趙範は、やもめの兄嫁樊氏を趙雲に縁付けようとした。趙雲は、趙範はせっぱつまって降伏したしたにすぎないから、心底が測りかねるとして、これを固辞して承知しなかった。趙範はやはり逃亡した。
劉備が益州に入るとき、趙雲は荊州に残って留営司馬の役を兼務した。このころ、劉備の孫夫人は孫権の妹なのを鼻にかけ驕慢で、大勢の呉の官兵を率いて、したい放題をやって法を守らなかった。劉備は趙雲が厳格であるため、引き締めることができるに違いないと判断し、特に任命して奥向きのことを取り仕切らせた。呉から孫夫人を迎えるための舟がたくさん派遣されてきた。孫夫人が劉禅をつれて呉に帰りたいと願っていたのであるが、趙雲が張飛とともに兵を指揮して長江をさえぎったので、なんとか劉禅を取り戻すことができた。
劉備は葭萌から引き返して、劉璋と交戦中に、諸葛亮を召し寄せた。諸葛亮は趙雲や張飛らを率いてともに長江をさかのぼって西上し、郡県を平定した。江州に到着すると、趙雲は別の川を通って、成都でおち合うことになった。成都が平定されたのち、趙雲は翊軍将軍に任命された。
黄忠と法正が定軍山で夏侯淵を撃ち破り、定軍山を平定したとき、曹操は漢中の領有を争って、北山のふもとに数千万の米を輸送した。黄忠は奪い取ってやろうと思い、趙雲の兵士が黄忠について米の略奪に行った。
ちょうど曹操が多数の軍兵をひきつれて出てきたので、趙雲はその陣に突撃かけ、負傷した将軍の張著を助け出して、曹操を撃ち破って自分の陣営に向かった。のちに曹操が軍をもりかえして、趙雲の陣営まで追撃してきた。このとき、留守を預かっていた張翼は趙雲の陣営内におり、門を閉ざして防御しようとしたが、趙雲が陣営に入ると、ふたたび大きく門を開けさせ、旗を伏せ太鼓をやめさせた。曹操は趙雲に伏兵があると疑い、撤退した。趙雲はすぐに曹操の軍の背後をついて、大きな勝利をおさめた。
翌日、この戦場を視察した劉備は「子龍の身体はすべて肝っ玉だ」といい、彼をねぎらった。軍中では趙雲を虎威将軍と呼んだ。
孫権が荊州を襲撃して関羽が戦死したので、劉備は大変怒り、孫権を討とうとした。趙雲は諌めて、逆賊(魏)を討伐すべきだと進言したが、劉備は聞き入れず、かくて東征したが、敗北した。趙雲は江州に留まって、敗北の知らせを聞くと、永安まで兵を進めたが、呉軍は引き返していた。
223年、趙雲は中護軍・征南将軍になり、永昌亭侯に封じられた。昇進して鎮東将軍になった。
227年、諸葛亮に従って漢中に駐屯した。翌年、趙雲はトウ芝とともに、出兵して斜谷街道を通り、曹真の大軍と対峙した。敵は大軍で強力だったので敗北したが、しかし軍兵をとりまとめて守りを固め、大敗にはいたらなかった。軍が街亭で敗北して撤退すると、趙雲みずから後詰めに指揮して、将兵を失うことにならず無事に帰還した。鎮軍将軍に位を下げられた。
229年、逝去した。享年不明。子の趙統が跡を継いだ。
趙雲伝中の記述がやや簡素なのに比べ『趙雲別伝』のそれは活躍を賛美する記述が非常に多く、清の史学者・何焯は「趙雲別伝とは趙家の家伝を改編したものではないか」と疑問を呈している。
ただ、趙雲の性格としては、蜀志の末尾にある『季漢輔臣賛』に簡素ながらも記載があり、「重厚な性質で、選り抜きの兵士を率い、勇猛でたびたび勲功をたてた」とされ、『別伝』における一部の記載の裏付けにもなっている。
伝中の評によると、黄忠・趙雲が果敢・勇猛によって、ともに武臣となったのは、灌嬰・夏侯嬰(いずれも漢の高祖の武臣)のともがちであろうか、と記している。
小説『三国志演義』において、趙雲は正史に比べて記述が多く、五虎大将軍の一人として、非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。眉目秀麗な美丈夫のイメージが強く、映画やドラマなどでは二枚目の俳優が演じていることが多い。
長坂では単騎で大軍の中を駆け抜け、阿斗(後の劉禅)と甘夫人を救出した(阿斗を抱えていた麋夫人は井戸に身投げして自殺)話は『演義』でも代表的な名場面であり、京劇でも人気がある。また、中国各地に阿斗を抱いた趙雲像が建立されている。
『演義』で五虎大将軍として称えられた趙雲であるが、史実の上では五人中最も位が低い。劉備が漢中王として即位した際、関羽・黄忠・馬超・張飛はそれぞれ前後左右の将軍位を授かっているのに対し、当時趙雲の官爵は翊軍将軍のままであり、その位階職位は魏延よりも下であった。
民間伝説によると趙雲は「白龍」(はくりゅう)(もしくは白龍駒、はくりゅうこま)という名前の白い駿馬を愛馬にしていた言う。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。
また「涯角槍」(がいかくそう)という槍を得意としていたという。『三国志平話』によると、長さ九尺(約3メートル)で趙雲が「生涯にかなうものなし」という意味でつけたという。同書ではこの槍で趙雲は張飛と互角に一騎打ちをしている。
上記の二つは『演義』では一切語れていないが、白龍のほうは、映画『レッドクリフ』に登場した。